波に砕ける日の出の岸辺――千葉県・九十九里浜〜犬吠崎――
2年 五十嵐 弓
茨城県 千葉県
5月初めの晴れた2日間、千葉県房総半島東部の海岸九十九里浜から犬吠埼、更に利根川河口の小都市・銚子市まで北上した。すぐ隣の県だが銚子は県の東北端なので、東京から鉄道で2〜3時間、車で高速道路を使わずに行くと都内を抜けてから更に2〜4時間はかかる。
九十九里浜
千葉市を抜けると一面に田んぼが広がりだす。そして東金市の山あいを走っていると、距離的には世田谷の明大前あたりくらい海から離れているはずなのになぜかもう潮の気配が感じられてくる。
まずは九十九里浜の中間あたりから海岸に出ようと思い九十九里町に入った。ここは江戸時代から続くイワシ漁と水産加工業がいまだ盛んな町である。ここで偶然「←1km伊能忠敬出生地」などという表示を見つけ、一応敬意を表して立ち寄ってみる。
彼の縁の地というと同じ千葉の佐原市のイメージが強いが、生まれて11歳まではここ上総国山辺郡小関村(現九十九里町小関)で育ったという。7歳で母親を亡くし、父親が婿養子であったためか、漁業を営む本家の方に一人で預けられたり、再び父親に引き取られて隣の横芝町に引っ越したり18歳で他(伊能家)へ婿養子に入ったりと何となく立場が不安定で不憫な少年期ではある。だが小関自体は落ち着いて明るい景観の農漁村という印象で、芝生が広がるのみで何の遊具も無い伊能忠敬記念公園でも小学生の子供達が歓声をあげて遊んでいた。
万葉の昔から知られている通り、九十九里浜の砂は黒くてちょっと湿り気があり、砂浜を歩くと車輪の軋るような音がする。砂の色が黒いのは、波による海岸侵食が激しいせいで輝石などの黒くて重い鉱物が残って濃集してしまうためだそうだ。それからここの田んぼのあたりは元々砂州で砂鉄の採集も行われていたので、リゾート開発などで無節操に建物を建てると液状化現象にやられてしまうという。
犬吠埼
銚子市の南側、おちょこの反対側のヘリに近い犬吠埼。緯度経度などの関係上「日本で一番早く初日の出が見える場所」だそうだ。犬吠埼灯台下の高さ50mくらいの崖は白亜紀の浅海堆積物から成るという。また崖下の磯の岩肌には、波のような重なり(写真2)や石ころ・貝の入り込んだ後の穴(写真3)が見て取れる。
←写真2
写真3→
「東洋のドーバー」屏風ヶ浦
犬吠埼南側の外川から飯岡町の刑部岬まで10kmほど、アメリカのグランドキャニオンのように縞模様の地層がむき出しの、高低差50〜60m(10階建てのビルくらい)で絶壁の海岸段丘崖が続く。その雄大さは英仏海峡のドーバーの「白い壁」に例えられて、「東洋のドーバー」として世界的に有名である(写真4)。
半島付け根の名洗集落の所でその崖面に10mまで近づく事が出来る。そこから見てみると、かつては海底だった砂岩質層(貝殻などの痕跡がある)の上に関東ローム層の赤土が堆積している(写真5)。
砂岩質の岩は見た感じもなんだか柔らかそうなのだが実際非常にもろく、波を受けると徐々に削り取られるのではなくまとまって崩れ、また「海食」だけでなく地震や雨水、地下水による影響でも崩落は進行する。観光案内版によれば、波消しブロックが設置されるまでは、下手すると40〜50年間で陸地が50mほど後退するほどだったそうだ。鎌倉時代には今より2〜6km先に陸地があったとも言われている。刑部岬突端の100mほど海側にはかつて源義経と親しかった片岡常春の居城があったが、その土台の地面ごと波に砕かれてしまい今では跡形もない。
写真4:屏風ヶ浦遠景 (月刊誌より転載のためWeb版では略)
銚子の町
いったん銚子で一泊。ここは名前通り、東を上にしたおちょこ形の半島状になっている。漁港町としても大きいが、ヤマサやヒゲタ醤油の大工場があって、その周辺は本当に醤油の香りがしていて長時間いると酔いそうなくらい。町としては、中央通りの商店街も活気があってかつのんびりしている。また見事な藤棚が連なるお寺は日曜の朝から土地の人やちょっと遠くからの人が多く来ていた。
面白いのが、どうかすると本業よりも「濡れ煎餅」(全工程が直営)の方がやけに有名だし儲かっているような銚子電鉄である。鉄道の本社がある仲ノ町駅ではそれの製造販売もしていて、駅事務室に入ると駅長と駅員さんが「いらっしゃいませー」と言って普通に濡れ煎餅を売ってくれた。でも電車も30分に1本運行と結構頑張っている。
利根川と黒潮・親潮
銚子市が河口部の右岸側となっている利根川は、日本では二番目に長い河川だというのに、その河口部はゆったりしているとは言い難い。むしろ川幅が群馬や埼玉あたりの上中流部より狭くなっている。さらに銚子の沖あいは丁度親潮と黒潮の交点域でもある。だからなのか、その辺は川の中だというのに凄い高波が出ていた。
今は新航路があるのでそれほど問題ないが、昔は「阿波の鳴門か銚子の川口、伊良湖渡合がおそろしや」といわれ、日本三大海難所の一つだった。それに河口だけでなく沖合いでもしょっちゅう難破していたという。でも潮流が交わる所には魚もわんさかいるので一長一短であり、全国各地から漁船が集まってくる。
結局新航路と外港を作りさらに航路管制を徹底させる事で事故の問題はなんとか解決でき、銚子と対岸の茨城県波崎は沖合い漁業、沿岸漁業の根拠地として現在まで発展し続けてくることができた。
物語を生む風土
九十九里〜銚子の海岸には高村光太郎、国木田独歩、竹下夢二、佐藤春夫、徳富蘆花など多くの文人が訪れて作品を生んだ。特に光太郎の“狂った智恵子は口をきかない”で始まる「風にのる智恵子」と「千鳥と遊ぶ智恵子」は素直に絶唱だと思える。他の文人の詩歌もなぜか憂鬱か不機嫌気味の内容が多いのだが、その突き放した描写がかえってこの土地を魅力的に印象付ける。また、刑部岬がある、九十九里浜と屏風ヶ浦にまたがる飯岡町は映画の舞台に少なくとも2度使われている。いずれも子供が主役だが、両方とも見ている間は素直に引き込まれる作品だった。
また、「朝日は銚子(太平洋)、夕陽は新潟(日本海)」とよく言われるが、刑部岬から見える関東南部方向の一直線の地平線に沈む時の夕陽も、綺麗以前に特別な趣きがあった。