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VOL.1-6  1999年12月

「日本の運河遺構」
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 世界の内陸交通機関の一つとして河川運河がある。現代においても大陸の地域間輸送や発展途上国のデルタ地帯では、大きな役割を果たしている。現在の日本では、観光船や一部のはしけでしか見ることができないが、かつては河川交通が重要な内陸輸送手段であった。最も発達していたのは、鉄道や自動車が導入される前の時代で、米などを全国的に輸送する必要があった江戸時代である。江戸時代には、急流河川や小河川に至るまで各地で河川交通を物資の輸送に利用した。年貢である米をはじめとして多くの物資が大坂、江戸をはじめとする城下町などの都市に集められたので、城下町などでは都市内や都市と港を結ぶ運河が作られた。
 写真Aは、森鴎外の「高瀬舟」で有名な京都の高瀬川である。高瀬川は伏見の港と京都の中心部を結んで、1611年に作られた運河である。また写真Bは、名古屋の堀川で1610年頃に城下町の中心部と熱田の港を結ぶために建設された。ちょうど左端の公園は貯木場の跡地で、その名残で現在も川岸に木材がたまっている。        
        写真A                      写真B          
             

 また、水位の差のある河川や河海を結んで水運網を形成する必要がある場合には、閘門式運河が建設された。江戸時代にもいくつかの事例があるが、明治以降現在に至るまで各地で作られている。写真CとDは、木曽川と長良川を結ぶ船頭平閘門である。木曽・長良・揖斐の三川は、江戸時代までは下流部で合流したり分流したりし、またその順に河床が低くなるため木曽・長良の洪水も揖斐川流域を襲った。宝暦治水をはじめ対策は施されたが、江戸時代には抜本的な解決はみず、明治末年(1912)にようやく三川分流工事が実現した。しかし三川の分離は河川交通においては、三川間を自由に行き来することができなくなる、このために建設されたのが船頭平閘門である。写真Cは、長良川側の水門を通過して閘室に進入したところで、このあと水門を閉めて、手前側にある(写真D)木曽川側水門を開けて閘室内の水位を木曽川に合わせた後、木曽川へ出て行く。            

      写真C                      写真D
          

                 <  写真A:1994年11月、写真B:1989年10月、写真C・D:1991年8月、いずれも岡島 建撮影

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