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VOL.2-5  2000年5月

「日本の「絹の道」 」
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 幕末の開国から近代日本の発展の過程で、最重要輸出品として位置付けられたのが、生糸(絹)である。横浜港の開港や東京遷都は、様々な政治的理由によるものだが、北関東を中心に本州内陸に展開されていた生糸産地の下流に位置することも理由の一つといわれる。
 その生糸を運んだ道が「絹の道」である(写真A)。関東山間地で生産された生糸等が八王子などに集荷され、商人の手によって横浜港まで運ばれた道である。世界史上の「絹の道」とはスケールも役割もかなり異なるが、日本近代史上においては重要な道といえる。写真Aの地点から山を下りたところが写真Bで、八王子市鑓水地区である。この地区からは生糸を運んだ商人が多く出、写真Bの右手中央の石垣の家屋はそんな商人の屋敷である。


  
(写真A)                            (写真B)
 

  旧来からの養蚕・製糸業に立脚した産業ではあったが、明治初めの殖産興業期には欧米の繊維生産技術の習得も図られた。有名な官営富岡製糸場もその一つである。明治5年フランス人バスチャンの設計で建てられた赤レンガの建物は現存している。片倉製糸工場となった後、現在は休止し、外観の見学のみ許可されている(写真C)。



(写真C)

 その群馬県方面からの輸送は、幕末から明治中頃まで利根川水運が使われた。利根川の支流烏川が中山道に接するのが、倉賀野河岸である(写真D)。ここで川船に載せられ、江戸(東京)や横浜港を目指した。明治20年頃から内陸にも鉄道が敷設され、生糸の輸送体系も変化する。明治17年開通の日本鉄道(高崎線)は、生糸輸送を目的とする路線であった。しかし絹の道に平行する横浜鉄道の開通はようやく明治41年のことであり、生糸輸送網の変化に対応できなかったといわれている。


(写真D)   

<写真A・B:1993年11月、写真C:1997年9月、写真D:1994年4月、いずれも岡島 建 撮影>

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