VOL.3-05 2001年05月
「世田谷の歴史地理:その2−近世・近代の水利用−
」
※写真が多いので、電話回線での閲覧は時間がかかります。
世田谷の地は大部分が洪積台地上にあって、農耕中心の歴史時代にあっては、大部分が開発の遅れた土地であっ
たと考えられる。湧水(写真A)を集めて段丘面や段丘崖下を開析する小川はあったとみられるが、農耕のための
用水としては水量が不足していたと考えられる。この地域に開削された農業用水路は1597年の六郷用水(写真
B)がはじめで、これは多摩川の和泉村で取水し、多摩川下流の六郷の開田のために段丘崖下を導水したものであ
る。六郷への送水が目的ではあるが、この地域の多摩川沿岸低地にも用水利用された。世田谷の台地上の開発のた
めの用水路としては、1658年開削の北沢用水、1659年開削の烏山用水(写真C)がある。ともに江戸への上水供
給のために1654年多摩川の水を羽村で取って開削された玉川上水から潅漑用に分水したものである。
(写真A) (写真B)
写真Aは、現在も豊富な湧水量を誇る「神明の森みつ池」で、武蔵野段丘崖(国分寺崖線)に位置している。当
時の景観を残しているものと思われる。
写真Bは、岡本民家園近くの六郷用水で、沿線には現在も農地(生産緑地)が分布している。
写真Cは、大学近くの烏山用水で、現在は暗渠化され、遊歩道となっている。
(写真C) (写真D)
明治以降も近世以来の用水システムを利用していたが、近代都市化の進展に伴い、浄水施設を持つ近代水道の整
備が必要となった。東京での近代水道は明治31年の淀橋浄水場開設に始まり、大正に入ると東京市に隣接する町村
でも水道会社の設立が計画された。その一つが大正13年竣工した渋谷町水道で、砧で多摩川の水を取り、砧下浄水
場を経て台地の尾根線にあたる高台の駒沢配水塔(写真D)で加圧して、渋谷方面に送水している。世田谷を送水
管が通じているが、世田谷での給水は軍施設の一部のみであった。世田谷町や駒沢町を給水対象としたのは、昭和
9年に完成した日本水道であった。
写真Dは駒沢配水塔で、左右二つの塔から成る旧渋谷町水道の給水施設である。大正12年関東大震災の前後に完
成したが、震災による被害はほとんどなかった、という。
写真Eは、駒沢配水塔(図中白い矢印)から三軒茶屋への送水管の上を行く水道道である。
配水塔、送水管とも現在も使用されている。
(写真E)
(写真A:1995年9月、B・D・E:2001年3〜4月、C:2000年10月、いずれも岡島 建撮影)
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