VOL.4-10 2002年10月
「世田谷の歴史地理:その4−近代宅地化の進展− 」
※写真が多いので、電話回線での閲覧は時間がかかります。
明治期の世田谷の景観は、近世以来の農村景観を呈していたと考えられ、甲州街道・大山街道沿いなどに街村がみられる他は、塊村が散在する農村集落が分布していたとみられる。田は烏山用水・北沢用水や仙川・六郷用水沿いに谷状に分布し、台地面は畑の他、森林や雑木林となっていた。明治期に世田谷に立地した近代施設としては駒場・駒沢方面の軍施設があり、また玉川電気鉄道が開通する明治末年には新宿・渋谷に近い東部では宅地化の兆しが見られた。
写真Aは、現在の岡本民家園であるが、かつての世田谷の農業集落の景観をよく伝えている。
写真Bは、大正元年に東京信託鰍ノより開発分譲された新町住宅地の現況である。玉川電鉄を通勤の足とするだけでなく、電鉄から電灯電気の供給を受けており、この地域における沿線宅地開発のはじめという。
大正半ば(1920年代)以降世田谷の人口も増大し、宅地化の波が東部から中部へ及んでくる。特に関東大震災は東京西郊へ移り住む人々を増大させたといわれる。郊外に避難した人々がそのまま住み着いたというような話もあるが、復興都市計画事業の進行に伴い、郊外に移住する例も多かったという。
写真Cは、世田谷区北端部に位置する現在の烏山寺町の景観である。震災復興期に土地区画整理事業の進行などにより、浅草・谷中・深川・麻布などの東京の旧市街にあった25の寺院の郊外移転の受け皿として形成された、近代の寺町である。(写真C)
大正末から昭和初期には、郊外電気鉄道が相次いで開通し、都心への通勤を前提とする郊外住宅地の建設が進んでゆく。 写真Dは、成城学園住宅地の現況である。牛込にあった成城学園を郊外に移転し、学園関係者を中心に理想的な住宅地を建設しようとするものであった。小田急電車により新宿に直結することを前提に移転したにもかかわらず、電車の開通が間に合わず、早期開通を働きかけたという逸話がある。