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VOL.5-12  2003年12月

世田谷の歴史地理:その6−世田谷の山と川−
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 江戸東京は下町と山の手に分けられるが、下町は言うまでもなく低地を指し、山の手は台地を指す。江戸の「飛鳥山」「上野の山」「愛宕山(写真A)」などは孤立丘と言うよりは台地の崖線を指し、四季折々の情趣を楽しむ名所でもあった。世田谷の国分寺崖線(写真B)は江戸の場合ほどの名所にはなっていないが、大正・昭和期頃には別荘地の立地などが進んだ。また段丘崖からは多くの湧水がみられ、水源地や滝、峡谷などが形成されている。写真Cは喜多見不動の滝である。
<写真A> <写真B> <写真C>
 世田谷の川としては、西南側の境界を成す多摩川が第一である。水上交通路、用水源、漁業の場であったほか、船遊びや風景を愛でる遊興の場でもあった。写真Dは現在の多摩川二子橋付近で右手が新田義興の伝説が残る兵庫島である。現在も多摩川付近からは写真Eのように富士山がよく見える(江戸一円からも見える)。これを対象とする富士信仰は江戸時代にはかなり盛んで富士詣も行われたが、実際に富士山までは行けない信仰者を対象に人工的な富士塚が江戸の各所に作られた。写真Fはこのような富士塚の一つである目黒富士の現況である。富士塚として著名な高田富士や品川富士が富士山型の小山であるのに対して、目黒富士は池尻大橋付近の段丘崖を富士登山道に見立てたものである。
<写真D> <写真E> <写真F>


 世田谷の台地を開析して流れていた川は大部分が農業用水に改良されて近世から近代まで利用されてきたが、現在は川としての使命を終えて、排水路としての利用のため暗渠化され、遊歩道として活用されている例が多い。写真Gは北沢川の梅ヶ丘付近、写真Hは同川の淡島付近である。

<写真G> <写真H>

(写真A・D・E・F:2003年11月、B・C:2002年7月、G・H:2003年2月、いずれも岡島 建撮影)



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