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VOL.5-05  2003年05月

世田谷の歴史地理:その5−江戸名所の現在−
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『江戸名所図会』は、江戸の名所を景観として表現したもので、1834年(天保5)〜36年に出版された。江戸の名所を著したものとしては非常に著名な出版物であり、1780年刊行の『都名所図会』をはじめとする全国各地の名所図会の中でも代表的なものである。その『江戸名所図会』には、現在の世田谷区に位置する名所も豪徳寺をはじめとして29カ所が取り上げられ、9枚の図版が描かれている。これらの名所はおおむね街道筋ごとに取り上げられているようである。
 まず、品川道の終点近くとして、奥沢村の浄真寺(図1)や等々力村の満願寺。大山街道(現、玉川通り)沿いに北沢淡島神社(図2)や子の明神(図3)、豪徳寺。弦巻から別れる津久井道(現、世田谷通り)沿いには大蔵村や喜多見村の寺社(次回取り上げる予定)が掲載されている。 

 <図1>                       <写真A>                     <写真B>
 図1は、浄土宗の九品仏浄真寺で、1678年に奥沢城跡であったこの地に創建された。図の中央に見える本堂に対峙して並ぶ上品・中品・下品の3つのお堂にそれぞれ3体ずつ、計9体の阿弥陀如来像が安置されるところから、九品仏と称される。写真Aは本堂手前の仁王門で、紫雲楼という。仁王門をくぐったところが写真Bで、右手が本堂、正面のイチョウの木の向こう側に見えるのが、中品堂である。 
 

 <図2>                      <写真C>                      <写真D>
 図2の中央上手が北沢八幡神社、その左手が別当森巖寺で、手前の池尻祖師堂の前を通るのが大山街道である。北沢八幡は吉良家によって世田谷北辺の守護として、文明年間(1580年頃)に勧請されたという。その別当として徳川氏によって建立されたのが森巖寺である。写真Cは現在の北沢八幡社で、図2に見られるように高台(段丘)上にあることが分かる。写真Dは同社の鳥居前で、左手奥が森巖寺である。 
 

 <図3>                      <写真E>
 図3の子の明神は、源頼朝が奥州征伐の際にこの社に立ち寄って、境内の松の木に愛馬を繋いで、武運を祈ったという伝承から、明治以降は駒繋神社と称している。写真Eは図1の中央の橋付近の様子で、橋の下を流れていた蛇崩川は暗渠・緑道化している。段丘崖の上に社がある様は図1の通りである。

             (図1・2・3は、『江戸名所図会』角川書店、1975、pp.144-145,212-213,215)
                 (写真A・D・E:2003年4月、B・C:2003年2月、いずれも岡島 建撮影)  



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