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VOL.6-07  2004年07月

世田谷の歴史地理:その7−旧喜多見村の景観−

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  現在の世田谷区の範囲では、近世に井伊(彦根)藩領となった村々や幕府領となった村々が多いが、旧喜多見村は旗本喜多見氏の所領であった。
 『江戸名所図会』においてこの地域で唯一図版が掲載されているのが、図1であり、「氷川明神社 祷善寺 慶元寺」のタイトルがある。この現況を示すのが写真Aである。畑の広がる向こう左手が慶元寺で、右手の三重塔の向こう側の森が氷川神社である。祷善寺は近代に廃寺となり、現在は全く残っていない。写真B、Cが慶元寺とその参道であるが、同寺は喜多見氏が江戸氏を名のっていた頃の1186年の建立と伝えられる。江戸氏は中世初め頃現在の皇居(江戸城本丸跡)付近に館を持ち、武蔵野一帯に勢力を広げていたが、中世関東の有力諸将によって次第に衰えてゆき、近世には前述の通り旗本としてこの地に所領を持った。元禄年間に罪に問われ滅びることになったが、図1中には同寺の左手に「北見陣屋蹟」の記載もある。

<図1>  <写真A> 
<写真B>  <写真C> 
<写真D>   写真E> 
 写真D、Eが現在の喜多見氷川神社とその参道である。同社も1570年江戸氏により再興(起源は不確か)されたもので、節分祭と里神楽は古式にのっとったものが、現在に伝えられている。また喜多見の地は、古代にも多摩川流域文化圏に位置し豪族たちが活動していたと考えられる。写真Fの稲荷塚古墳はその一つの表れといえよう。
<写真F>   写真G> 
<写真H>   写真I
 近世の喜多見村は、世田谷宿から登戸に向かう登戸道(現在の世田谷通りの旧道)が村を貫き、交通の要衝でもあった。特に、多摩川を筏を組んで江戸まで行った筏師たちが青梅・西多摩地方に歩いて帰るのに通ったという「いかだ道」との交差点付近は特に賑わったという。写真Gがその現況であり、この交差点にかつてあった酒屋は、現在次太夫堀民家園に移築保存されている(写真H)。同民家園は、かつての喜多見村の農村景観を農家や田畑、水路ごと復元したものである(写真I)。

<(図1は、『江戸名所図会』角川書店、1975、pp.238-239)
 (写真A〜Iは、いずれも2004年6月、岡島 建撮影)>
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