Back Number をみる

VOL.7-02  2005年02月

日本のみなと

※写真が多いので、電話回線での閲覧は時間がかかります。
このページは、1024×768以上の画面でごらんください。画面が小さいと写真の配列位置がこわれます。
このページの写真は意図的に画質を落としています。写真等の引用の可否は執筆者へ直接お問い合わせ下さい。


 日本は周囲を海に囲まれ古くから水運が盛んであった。また、世界的にみても近代交通機関の発達以前においては、船が最も有効な物資の大量輸送手段であった。船が物資の積み卸しをする場所がみなとであり、日本では中世以降港町が発達した。また急流といわれる日本の河川も物資輸送が盛んになる近世には水運が発達した。
 日本で現存する最古の築港遺跡とされるのが、鎌倉の和賀江津である。遠浅の材木座海岸に出入りする船は海岸に近づけず沖合停泊を余儀なくされたが、難破や座礁の危険も高かったため、これを多少なりとも改善するために、1232年に建設された。写真Aにみえる島状のものと海岸部の大きな石がそれであるとおもわれる。(写真A・B・C)
 しかし、安定した港として鎌倉の外港に利用されたのは三浦半島東岸の六浦湊であり、半島の付け根を横断する六浦道は鎌倉幕府の物資輸送の重要道であった。この道が山越えして鎌倉に入る部分が写真Dの朝比奈切り通しである。

写真A 写真B
写真C 写真D


 近世には全国的輸送体系の整備に伴って、多くの築港施設と河岸施設が造られた。写真EとFは有名な「宮の渡し」を復元した状況である。宮の渡しは東海道の海上七里の渡し場であると同時に、名古屋城下の外港熱田湊でもあった。近代以降の臨海部埋立によって現在は内陸化してしまったが、当時はここが海岸線で写真Fは海につきだした船付き場ということになる。

写真E 写真F


 また、写真GとHは「奥の細道」結びの地としても知られる大垣湊の現況である。ここも近世には大垣城下水門川水運の拠点港であり、周囲には問屋や蔵が建ち並んでいたという。明治初めにはここから揖斐川河口の桑名まで蒸気船が通じていた。

写真G 写真H


 近代の幕開けとなる開国に伴う築港施設の整備は横浜に始まる。写真Iは通称「象の鼻」といわれる幕末開港時の波止場の現況で、右手から伸びる堤が象の鼻に似ていることから称された。明治に入っての築港工事によって造られたのが、赤レンガ倉庫も見える新港埠頭である。

写真 I

 横浜開港に遅れること約10年で開港した神戸港の築港施設メリケン波止場の現況が写真Jである。1995年の阪神淡路大震災で崩壊したが、震災メモリアルパークとして保存している。   

写真 J

 (写真A〜Dは2003年10月、E・Fは1985年11月、G・Hは2004年9月、Iは2003年6月、Jは2004年10月、いずれも岡島 建撮影)


(撮影:野口泰生) 
 Back Number をみる・今月の地理写真バックナンバー