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VOL.8-04  2006年04月

世田谷の歴史地理:その8−国士舘の立地−

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 国士舘大学世田谷校舎の現在地は創立の地でもある。図1は「国士舘」が地形図上に表記された最初のもので、大正10年(1921)修正測図の1万分の1地形図「世田谷」の一部である。図の南部を東西に走り、「下町」から「上町」へ屈曲しているのが、この地域の古くからの主要街道である大山街道である。「下町」までは現在は世田谷通りの一部となり、「上町」は近世にこの地の中心ともなった現在のボロ市通りである(詳しくは本シリーズのVol.2-11(2000/11)およびVol.4-3(2002/03)を参照)。地図の中央付近に「元宿」という集落があり、中世からの集落とされるが、現在は世田谷区役所が建ち(写真A)、当時の景観は全く失われている。国士舘創立の頃は、地図で見る限りこれらの集落の他は田畑が広がる農村景観であったと考えられる。なお、地図に見られる記号のない白い空地状の部分は畑である






                    図1

 

<写真A> <写真B> <写真C>

 このような地域に立地した国士舘(写真Bは大学内の現況)の隣にあるのが勝国寺である(写真C)。同寺の歴史は古く、1554年にこの地を治めていた吉良氏が建立したもので、世田谷城の鬼門に当たることから代々祈願所とされていた。現在、境内からは国士舘大学の校舎も見える(写真D)。さて、このような歴史はあるとはいえ、当時は農村であったこの地を選んだ「国士舘」の創設者たちにとっては、東に位置する松陰神社(写真E)の存在が大きかったという。松陰神社はいうまでもなく吉田松陰を祀ったもので、1863年に高杉晋作・久坂玄瑞ら松陰の門弟が、当時毛利藩のお抱え屋敷地内であったこの地に葬ったのが始まりで、明治時代に社殿などの整備が進められた。また境内には1936年に松下村塾の模型(写真F)も作られている。

<写真D> <写真E> <写真F>

 この松陰神社と世田谷通りを結ぶ参道は現在、商店街となっている(写真G)。また、世田谷通りに並行して敷設された世田谷線には松陰神社前駅(写真H)が設置された。

<写真G> <写真H>

                                            (写真A〜Hは、いずれも2006年3月、岡島 建撮影)


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