VOL.9-6 2007年6月
「町田の歴史地理」
※写真が多いので、電話回線での閲覧は時間がかかります。
本学の鶴川キャンパスがある町田についての歴史地理を考えてみたい。
縄文時代からの長い歴史をもつ町田は、古代の東海道以降、鎌倉街道や大山道など幹線道路が通じる交通の要衝となり、原町田には定期市が設けられた。さらに幕末から明治時代には、八王子から原町田を経て横浜に向かう街道が「絹の道」とも呼ばれ、多くの商人が行き交った。明治末にできた横浜線と昭和初期に開通した小田急線が交差する町であったが、人口が急増するのは戦後高度経済成長期以降に東京の郊外としてベッドタウン化してからで、かつて生糸を運んだ横浜線も通勤客を運ぶようになった。
写真Aは高ヶ坂石器時代遺跡で大正15年に史跡指定された縄文中後期の敷石住居跡である。写真B、写真Cは鎌倉古道、写真Dは鎌倉古道の古井戸とされるもので、鎌倉から府中、熊谷、高崎方面を結ぶ「鎌倉街道上ッ道」の跡である。
<写真A> | <写真B> |
<写真C> | <写真D> |
写真Eは、鎌倉街道に起源をもつといわれ、大山参詣の道として発達した小野路の宿の現在の景観である。古くて狭い道の両側に宿の歴史的景観が近年まで残っていたが、現在は名主の小島家(写真左手)付近を残して道路拡幅の工事中である。また写真Fは、宿の南方にある大山道の一里塚跡である。
<写真E> | <写真F> |
これらの街道沿いの地域には古い寺社も多く、写真Gの小野神社は、小野路の宿の南斜面の入り口付近にあり、平安時代前期の和漢学者小野篁を子孫が祀ったことに由来するという古社である。写真Hの薬師堂は、天平年間(729~749)に行基が開基したと言われる野津田村の華厳院が荒廃していたのを元亀4年(1576)に再興し福王子薬師堂と称したもので、現在の建物は明治16年(1883)の再建である。
<写真G> | <写真H> |
さて、写真Iは小田急線町田駅の北口駅前広場に立てられた道標(碑)である。復元ではなく、昭和58年(1983)に一番街商店会が原町田誕生四百年を記念して建立したものであるが、ここを「絹の道」が通っていたことを示している。そして写真Jは、原町田の街道の町並みの現況である。原町田は本町田の枝郷であったものが独立し、天正15年(1587)に「二の市」が原町田、「七の市」が本町田に開設されたのが原町田商店街の起源といえる。その後も賑わいを増し、江戸後期には六歳市となった。
<写真I> | <写真J> |
以上の各地点の位置を示したのが図1である。ベースとした地形図は1961年発行の5万分の1「八王子」の一部である。
<図1> |
(写真A~Jは、いずれも2007年5月、岡島 建撮影)