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VOL.10-01  2008年1月

日本の運河遺構(その2):琵琶湖疏水」

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 琵琶湖疏水は近代日本の代表的な運河遺構である。それは灌漑・飲用・防火用水と水力・水運などの多目的開発であり、明治期の京都の近代都市発展に大きな役割を果たした。琵琶湖の水を京都に導水する計画は江戸時代以前からあるが、疏水建設計画が具体化するのは京都が首都でなくなり近代都市としての発展に停滞がみられた明治前期のことである。琵琶湖疏水は、近代都市京都の復活のための起死回生策とでもいえよう。計画決定は1883年(明治16)、起工1885年、竣工1890年である。大津市で取水し、山科盆地を経て京都東山に導水するもので、延長8.7km、標高差40mである。京都周辺の灌漑、京都の生活・防火用水、標高差による水力開発、琵琶湖と京都および淀川をむすぶ水運が具体的目的である。

<写真A> <写真B>

                    
 写真Aは、標高50mの東山蹴上付近、琵琶湖疏水記念館前の現況である。写真Bは標高85mの山科付近の現況である。写真Cは、東山の山地(九条山)を貫く第3トンネルの西出口であり、その先(西側)の船だまりの現況が写真Dである。写真Cの右手の赤レンガの建物は上水道施設である九条山ポンプ室で、現在の琵琶湖疏水の役割のほとんどは上水供給となっている。

<写真C> <写真D>


 写真EはD地点とA地点を結ぶインクラインの復元である。インクラインは閘門では克服できない勾配に建設される運河施設で、ヨーロッパなどには多く見られるが、日本ではきわめて珍しい遺構である。水は、D地点とA地点の間で導水管を通り、その落差によって発電を行っている。写真Fは蹴上発電所の建物である。

<写真E>  <写真F>


 写真Gは、D地点で分水し京都の北部へと通じる用水路で、その水を通すために南禅寺の境内につくられた送水橋が「水路閣」(写真H)である。

<写真G> <写真H>

                    

 (写真A~Hは、いずれも2007年7月、岡島 建撮影)





 


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