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VOL.10-11  2008年11月

欧亜国際連絡列車の結節点・敦賀」

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 今月も鉄道ネタです.

 国際列車といえば,2カ国以上にまたがって運行される列車を指しますが,かつて日本にも「国際列車」が走っていたって知っていますか?

 正しくは「欧亜国際連絡列車」.列車そのものが国境を越える訳ではないので,本当の意味の「国際列車」ではありません.ただし,この列車,日本の国内路線(東京~敦賀),日本海を渡る船(敦賀~ウラジオストック),そしてシベリア鉄道を連絡して,東京とヨーロッパ諸都市を結ぶ経路を形成し,共通の切符が発行される(東京で終点までの切符が買える)路線でした.
 1912年に,上記ルートの接続列車として,新橋(当時,東京駅はまだない)~金ヶ崎(現敦賀港)駅を結ぶ直通列車が開通します.これが「欧亜国際連絡列車」です.第一次世界大戦,ロシア革命などによって一次中断することはあるものの,1940年(第二次世界大戦が本格化する頃)まで列車は運行されました.1932年の国際連盟総会において国際連盟脱退を宣言した松岡洋右一行の往復にも,この経路が利用されたのは,当時,海路では約40日かかった東京~パリ間を17日間で結ぶものだったからでした.
 この「欧亜国際連絡列車」の乗り継ぎ駅が金ヶ崎駅(現敦賀港駅;1919年に改称).現在は貨物専用駅です(写真A).当時はここで列車から船へと乗り換えていました.現在も海のすぐ近くでコンテナの積み下ろしがなされています(写真B).かつてはここから東京へと「欧亜国際連絡列車」が走っていたかと考えると,単なるローカル線の駅とは違って見えます(写真C;敦賀港駅から敦賀港線(敦賀駅方面)を見る).
 「欧亜国際連絡列車」が走っていた当時の名残として「ランプ小屋」が敦賀港駅の一角に残されています(写真D;左が駅舎,右がランプ小屋).毎年4/1~15に一般公開されるようです(写真E).その他に,往事をうかがえるものとして,1999年に,敦賀港開港100周年を機に復元された敦賀港駅の駅舎が,敦賀港に隣接する金ヶ崎緑地にあります(写真F).復元された駅の奥に見える建物は「敦賀ムゼウム」.1940年,杉原千畝の「命のビザ」を持ったユダヤ人難民が上陸したのも,1920年,ポーランド人孤児を受け入れたのも,いずれも敦賀港であったことから,それらに関する展示を行うのが敦賀ムゼウムです.
 このように世界史上,国際的にも重要な位置にあった敦賀.敦賀駅構内には,往事の名残であろう「転車台」(写真G)や「給水塔」(写真H)が今も残っています.また現在,敦賀駅からは大阪まで約1時間20分,名古屋までは約1時間半で,在来線特急が直通しており,北陸線の重要な拠点として,多くの列車が通っています(写真I,J;名古屋~敦賀~金沢・富山方面を結ぶ特急・しらさぎ.長浜駅を通過中).

 敦賀市の他の写真(地理学野外実習Cの様子)は,こちらにあります.

写真A 

写真B 

 写真C 

写真D 

 写真E 

写真F 

 写真G 

写真H 

 写真I 

写真J 

<写真A~J:2008年10月,加藤幸治撮影>


                                              

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