Back Number をみる

VOL.11-05  2009年05月

廃線から10年、蒲原鉄道の跡をたどる旅

※写真が多いので、電話回線での閲覧は時間がかかります。
このページは、1024×768以上の画面でごらんください。画面が小さいと写真の配列位置がこわれます。

※写真や画像の引用に関する問い合わせは、こちらのリンク先ページをご覧下さい。


 廃線ブームが続いているようですが、私が訪ねたのは新潟県の中央部、山間を走っていた蒲原鉄道です。二十数年ぶりに再会したかつての車輌は、かなり哀れな状態にあり、少し感傷的になりながら写真を撮ってきました。
 1922年(大正11年)に設立された蒲原鉄道株式会社は現存しています。ただし現在は、路線バスや貸し切りバスを運行しているバス会社です。鉄道線は、1923年に村松-五泉、1930年に加茂-五泉の全線が開通しました。加茂-五泉間は約22kmでした。全線単線で駅数は15、1999年に最後に残っていた村松-五泉間4.2kmが廃止され、77年にわたる鉄道線の歴史は終わりました。
 沿線には冬鳥越スキー場や猿毛岳スキー場があり、往事は2両編成の臨時便も走っていたような記憶があります。もっとも、猿毛岳スキー場(下の地図、右側の枠内の右上)は新潟からの新潟交通の直行バスが運行していたものの、雪が降らなくなって閉鎖、冬鳥越スキー場も今ではリフトも無くなって同じような状況なのでしょう。ちなみに冬鳥越スキー場の最盛期は昭和三十年代で、当初は蒲原鉄道直営のスキー場だったそうです。この話しは、下にあげた「走った運んだ77年」という本に書いてあるのですが、その次のページには、「昭和11年の2.26事件鎮圧のため、村松の分屯地から首都防衛のために兵員輸送の臨時列車が仕立てられ、村松から加茂まで兵員輸送に使われた」などという記載があります。山深い地を走っていた鉄道にもいろいろな歴史があったのだなぁと、思わず引き込まれてしまいました。蒲原鉄道を三条にまで延伸し、燕まで通じていた新潟交通の線路とつないで新潟まで通すといった、壮大な計画もあったのだそうです。
 さて、戦後の蒲原鉄道は、それなりに通勤・通学客でにぎわっていたのでしょう。下の地図からわかるように、なぜか加茂市域では市街地を外れて線路が通っていますが、1967年(昭和42年)と69年(昭和44年)の加茂川水害では加茂川に沿って走っている鉄道は大きな被害を受けました。廃線の危機はどうにか乗り越えたものの、この頃をピークとして乗降客は減少し続け、ついに1985年(昭和60年)に加茂-村松線が55年の歴史を終えて廃線、4.2kmの村松-五泉線も、設立80年を待たずに、1999年(平成11年)に77年の歴史をとじて廃線となりました。社長に廃線を決意させたのは、踏切施設の老朽化であったそうです。大事故が起こる前に ということだったそうです。
 
加茂-村松線の一部がこの地形図にのっています。   (国土地理院発行地形図の一部を引用)
写真1 写真2 写真3
冬鳥越スキー場に保存されている車輌
写真4 写真5 写真6
保存状態はよろしくないので、大写しの写真を載せるのはやめておきます。
写真7 写真8 写真9
こちらの車輌はペンキも新しく、かなり良い状態です。
写真10 写真11 写真12
 この部分は、廃線から25年経とうとしています。田んぼの真ん中を通っていた線路の周辺には住宅地ができていますが、線路の跡であったことはよく判ります。写真12は、加茂川に沿って走るかつての線路跡(対岸に見える築堤)です。
写真13 写真14 写真15
 写真13~18は、旧村松町(現在は五泉市と合併)に保存されている車両です。下の看板にあるとおり(人名は消してあります)、個人の方が譲り受けて保存しているようですが状態は良くありません。車両の中は物置のようになっており、机や椅子が積み重なっていました。屋根がかけられていますが、車両の外装はだいぶ痛みが進んでいます。
写真16 写真17 写真18
 道路の右側にかつての線路跡が並行に走っています。写真18は、車輌が保管されている広場の一角で撮影しました。
参考としたもの
・蒲鉄ものがたり 走った運んだ77年 村上宗之(2001)、新潟日報事業社
・DVD 「鉄路の轍 No.4 蒲原鉄道(」 株)バンプレスト
・VTR 「さよなら 蒲原鉄道」 ビコム(株)
<いずれの写真も2008年秋、2009年冬に長谷川均撮影

                                              

今月の地理写真バックナンバー