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VOL.13-08  2011年08月

「世田谷の歴史地理:その9―旧用賀村・瀬田村の景観」

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 旧用賀村・瀬田村は、現在の用賀から二子玉川にかけての地域で、近世には大山街道の通る村々であった。図1はいわゆるフランス式彩色2万分の1地形図で、「東京府武蔵国荏原郡等々力村及用賀村図」(明治14年測図)の一部である。図の南西隅に多摩川が見え、多摩川低地部からその北側の国分寺崖線を上がった台地部にかけてが瀬田村であり、台地上をこの図の中央を東南流して小さな谷をつくる谷田川の北側が用賀村である。近世後期に書かれた『新編武蔵国風土記稿』によれば、用賀村の地勢については「地形ハ平カニテ用水不便ナレバ、水田少ク畑多シ。中央ニ一条ノ道アリ。二子渡ノ方ヨリ来リ、瀬田村ヨリ入。コレハ相州矢倉沢ヘモ大山ヘモカヨウ路ナリ。コノ路、村ヘカカリ中央ニテ両岐トナリ、ソノ一ハ世田ヶ谷村ヘイリ、ソノ一ハ同村ノ枝郷新町ヘイル。」とある。用賀の宿場の現況が写真Aである。また「両岐」となる場所の現況が写真Bである。写真左手が世田ヶ谷村へ通ずる道でかつての鎌倉街道でもある。右手が近世に開かれた新町への道である。








































 (図1) (写真A) (写真B)
 この道について瀬田村の項では「村ノ中間ニ一条ノ往還アリ。相模国へノ道ナリ。(中略)此道二筋ニ分レ、又合セテ一トナレリ。」東側の道が台地から低地へ下るところが行善寺坂(写真C)であり、行善寺から多摩川や富士山の眺めは玉川行善寺八景として知られる名所であった。用賀村との村境付近で二筋に分かれる場所には現在も延命地蔵(写真D)がある。瀬田村の地勢としては「此村西南ノ方ハ水田ニシテ、低ク、東北ノ方ハ高シ。高低相半ス。土性平田ハ真土ニシテ、畑ハ野土ナリ。(後略)」水田の用水源として崖線下に開削されたのが六郷用水(写真E)で、多摩川から取水し遠く六郷にまで通じるが、段丘崖の湧水を集めて多摩川低地を灌漑してきた。
(写真C) (写真D) (写真E) 
 また用賀村の水利については「溜井 小名本村ニアリ。大サ三段バカリ、天水ヲココニタタヘテ用水トス。コノ余品川用水トテ村ノ東ノ端ヲ流ルル小川アリ。世田ヶ谷村ヨリ入リ新町ヘ通ズ。サレドモ水低ク地高ケレバ、用水トスベカラズ。 悪水堀 北方世田ヶ谷村ヨリ、南野良田村ヘ通ズ。」という。溜め井による天水灌漑は近代にはなくなるが、溜め池の跡は現在も残り、小公園となっている(写真F)。品川用水は、玉川上水から分水し、武蔵野台地(荏原台)を流下して品川宿周辺の村々に用水を送るものであった。記述のように近世に既に農業用水としての役割を果たしていなかったが、戦前まで水路があったことは昭和初期の地形図(図2)でも分かる。写真Gはその現況であるが、埋め立てられて道路となっている。悪水堀は、冒頭で触れた谷田川であり、下記に述べる区画整理の際に水路が付け替えられ、現在では暗渠化されて、親水設備もある遊歩道「いらかの道」となっている(写真H)。
(写真F)  (図2) (写真G) 
 畑が広がる台地上は昭和期に大規模な区画整理が実施された。これは玉川村(旧用賀村・瀬田村を含む村々が合併して明治期に成立)の豊田村長のリーダーシップになる玉川全円土地区画整理というもので、一村全域を区画整理するという画期的な事業であった。図2では旧用賀村でも区画整理が進んでいることが分かる。この結果、現在は良好な住宅地となっている(写真I)。また、中には生産緑地も多く見られ、農業公園(写真J)もある。
(写真H) (写真I) (写真J)
 (図1は日本地図センター発行、図2は『明治前期・昭和前期 東京都市地図3 東京南部』(柏書房、1996)より、写真はいずれも2011年7月に岡島 建撮影).
                                           

                                              

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