今年6月カタールのドーハで開催されたユネスコの世界遺産委員会議において、群馬県にある「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産としての登録が決定しました。世界遺産登録後の富岡製糸場の観光人気の高まりは、ニュース等で報道されたとおりですが、ここに至るまでの過程は決して平坦なものではありませんでした。
たまたま手許に20年ほど前の富岡市の観光ブックレットがありますが、その中での富岡製糸場の扱いは「旧官営富岡製糸場 現・片倉工業株式会社」として見開き半分に簡単に紹介されているのみで、決して現在のような群馬県を代表する有名観光地として記載されてはいません。明治5年に日本初の官営製糸工場として建設された富岡製糸場については、中学高校の歴史教科書にも記載され、名前だけは知られていましたが、実際にその施設を見学したことのある人は、当時は多くありませんでした。なぜなら、官営富岡製糸場は戦前に紆余曲折を経て片倉製糸紡績会社(その後片倉工業に社名変更)に買収された後、1987(昭和62)年まで工場として操業しており、閉業後も一般向けの公開をしていなかったからです。今でこそ世界遺産ブームのおかげで、産業遺跡の文化財としての認識も広まってきましたが、少し前までは、時代の波に着いていけず老朽化し潰れてしまった古い工場跡などは、再開発の対象ではあっても、これを文化財ましてや観光資源と考える人は稀だったのです。
しかし1990年代に入った頃から風向きが少しずつ変わってきました。世界遺産委員会による文化遺産登録基準の見直しの中で産業概念の重要性が指摘され、各国で産業遺跡が世界遺産リストに載るようになってきたのです。こうした波は日本にも影響を与え、2005(平成17)年に富岡製糸場は片倉工業から富岡市へ譲渡され、「旧富岡製糸場」として国史跡に指定、翌年には国重要文化財に指定されました。富岡市はさらに世界遺産登録を目指し、2007年には日本の世界遺産暫定リストに加えられ、それから8年の努力を経て今回の世界遺産登録となったのです。
こうした動きのただ中にあった2010年に富岡製糸場を訪ねたときの写真を、今回は紹介したいと思います。
写真1は、上信電鉄の上州富岡駅です。世界遺産富岡製糸場まで徒歩約10分と最も近い鉄道駅なのですが、この写真の撮影時は駅を降りて富岡製糸場へ向かった乗客は我々しかなく、参観者のほとんどは自家用車か観光バス利用のようでした。写真2は、その途上にある宮本町の通りです。典型的な地方小都市の商店街なのですが、上信電鉄ともども世界遺産登録によって観光客の流れが変わるとよいのですが。写真3は、富岡製糸場正門前。「祝」とあるのは世界遺産暫定リストに載った祝です。この日は平日でしかも雨模様ということで、さほど多くの観光客はいませんでした。写真4は、正門を入り入館受付をすませたすぐ前にある東繭倉庫の入口です。入口の真上にあるキーストーン(要石)には「明治五年」と刻まれています。なお、製糸場内ではガイドツアーが行われており、個人でも参加できます(写真5)。
写真6は、フランス人男性技術者の住宅として建てられた検査人館、写真7はフランス人女性教師のために建てられた女工館、ともにコロニアル様式の住宅です。写真8は富岡製糸場の中心的な施設である繰糸場で、その内部が写真9です。創業当初はフランス式の繰糸機300釜が設置された世界最大規模の工場でした。現在入っている機械は、戦後閉業まで使われていたものです。写真10は、創業当時指導者として雇われたフランス人ポール・ブリュナが家族と暮らしていた住居(ブリュナ館)です。ブリュナ帰国後は工女たちの夜間学校としても利用されました。写真11は旧蒸気釜所後、現在の煙突はコンクリート製ですが、操業当初は鉄製の筒を積み上げたものでした。写真12は東繭倉庫と向かい合って建てられている西繭倉庫です。
なお現在、日本の世界遺産暫定リストには、大牟田・荒尾の三池炭坑万田坑・宮原坑、北九州の八幡製鉄所跡、長崎造船第三船渠、韮山反射炉、などが記載されており、世界遺産リストへの登録をねらっていますが、現状のままではなかなか難しいようです。
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