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VOL.18-10  2016年10月

  日本一の名城:熊本城」

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 私はこれまでに国内150余の近世城郭跡を訪ね歩きましたが、現在見ることのできる城跡の中で最も素晴らしい城郭跡はどこか(訪れるべき城郭はどこか)と問われれば、熊本城の名を第一に挙げます。たしかに大坂の陣以前の大坂城や、振袖大火以前の江戸城は、さぞや壮大な城郭だったと想像されるのですが、残念ながら現在はその片鱗しか見ることはできません。また、熊本城に唯一比肩する城郭として姫路城を挙げることもできますが、たしかにその優美さにおいては姫路城に一歩を譲るものの、現存する曲輪や石垣の景観の雄大さでは熊本城が優るように思います。もちろん、姫路城内の多くの構造物が国宝8件を含む重要文化財に指定され世界遺産にも登録されているのは、江戸時代以前の遺構が多く残されているからで、明治10年の西南戦争で天守閣を含む本丸が消失してしまった熊本城は、文化財としての価値は著しく減じることになってしまいました。ちなみにこの攻城戦において、熊本城に籠城した官軍は約2か月にわたる西郷軍の猛攻を耐え抜き、熊本城を造った加藤清正の築城技術の高さを築城の270年後に証明したことは有名な話です。
写真1 本丸から見た大天守と小天守  
写真2 国重要文化財の宇土櫓
 
 熊本城の天守は連結式天守というスタイルで、西南戦争の際に消失して以来不在でしたが、現在目にすることのできる天守は昭和35年に鉄筋コンクリート造りで再建されたものです(写真1)。これに対し、本丸の北西の隅櫓となっている宇土櫓は、西南戦争や熊本空襲の戦火をくぐり抜け、築城当時より現存する重要文化財の建造物です(写真2)。別名「第三の天守」と呼ばれるように三層六重の天守であり、国宝である松本城大天守や松江城大天守と同程度の規模を持っています。本来の熊本城にはこの宇土櫓と同規模の五階櫓がほかにも6基あり、近年それらの再建・復元が進んでいました(写真3)。

 
写真3 再建された飯田丸五階櫓(奥)と竹ノ丸五階櫓跡 写真4 二様の石垣
 
写真5 坪井川沿いに続く長塀(国重要文化財) 写真6 大天守から見た本丸御殿
  また、熊本城を語るうえで必ず出てくるのは石垣です。始め緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる形状の石垣は「武者返し」と呼ばれています(写真4)。南側の濠にあたる坪井川沿いに作られた石垣は長塀と呼ばれ、日本最長の石垣です(写真5)。平成19年には築城400年を記念して本丸御殿(写真6)ほかの建造物が復元されました(写真7)。その後も平成24年に政令指定都市になった熊本市のシンボルとして、熊本城の復元計画は着々と進み、往時の壮大な城郭の景観に近づきつつありました(写真8)。
写真7 復元された西出丸長塀と戌亥櫓  写真8 大天主より見た宇土櫓・二の丸(パノラマ)
写真9 多くの瓦が落ちた大天守と小天守 写真10 倒壊した北十八間櫓(国重要文化財)
 今年4月に発生した熊本地震によって熊本城に大きな被害が出たことは、衝撃的な映像とともに全国に報じられました。天守閣は鉄筋コンクリート造りのため崩壊することはありませんでしたが、鯱と大部分の瓦が剥落しました(写真9)。今回の地震では石垣が崩壊する現象が発生し、いくつかの重要文化財にも被害が出ました(写真1011)。とくにこの10年間に建設した部分では完全に崩壊した例が見られます(写真12)。今回の被害箇所を完全に修復するには、何百億単位の資金と少なく見積もっても10年以上の期間が必要だと試算されています。残念ですが、これからかなりの長期にわたって日本一の名城の壮観が見られなくなることが懸念されます。ただし、近年の歴史的建造物の再建は在来工法を使った厳密な復元が主流になっているため、昭和30年代の第一次天守再建ブーム期に造られたためコンクリート造りだった天守閣が、もしかすると江戸時代当時の木造建築で正確に復元されるかもしれません。 
写真11 70mにわたって倒壊した長塀
写真12 石垣が崩壊した戌亥櫓
(2009年、2016年 内田順文撮影)

                                              

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