VOL.24-07
2022年07月
「
長谷川 均
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ここに載せたのは,カメラがデジカメに代わる前のずいぶん前の写真ばかりです.1996年,パナマで国際サンゴ礁シンポジウムが開催されました.この時わたしは何を発表したのか全く覚えていないのですが,とにかく中米のパナマへ学会発表に行って,学会の前後に開催される何コースものフィールド・エクスカーションの中から「サンブラス諸島」を選んで参加しました. パナマといえばパナマ運河ですが,運河の話は以前のこのコーナーで書いたことがありますのでそれをご覧ください. サンブラス諸島約365の島とケイ(洲島)からなる群島で,そのうち49の島に人が住んでいるそうです.英語版のウィキペディアには,「サンブラスとその周辺地域は、その手付かずの環境のためにエコツーリズムの天国です。この地域は、その美しさとハリケーンの少なさで知られているため、セーリングでも人気があります」と書かれていますが,小さな島に高い人口密度,上水道や電気も無しですから,人が住んでいる島々の衛生管理はよろしくありません. パナマシティにある国内線空港からパナマ運河沿いに北上しすぐに北東へ,カリブ海の外れにあるサンブラス諸島を訪問しました.10数人のツアーだったと思います.サンブラス諸島は小さな島々だけが点在するところで,飛行場島は一本の滑走路以外に集落もないような島です(写真2,4).そこから船外機付きの小さなボートに分乗して,スミソニアンの研究所のある島とか,ホテル島,スノーケリングをする島とかを巡りました. 島へは双発の小さな飛行機(写真1)で渡ったのですが,私の座席は飛行機の天井からの雨漏りがひどくて,隣の席のホンコンの女性研究者が,タオルをかけてくれたことを思い出しました.飛行場島の滑走路は狭くて短くて,飛行機はうまく方向転換できません.そこで,乗客が皆で飛行機のお尻を持ち上げて向きを変えたり,それなりに面白い経験でした. 小舟に乗って最後にホテル島へ行ったのでした(写真3,5,6).このホテルで食事をしたのですが,帰りの飛行機の中で少しお腹の調子が悪くなりかけ,パナマシティのホテルで2,3日寝込んでしまいました.原因は,砂浜に建っている小屋のようなホテルで食べた昼食です.水道もない島ですから雨水の貯め水で調理したものが出されたのでしょう.開発途上国ではよくあることです.学習しました.ちなみにホテルのトイレは浜から突き出た桟橋の先にありましたので(写真6),とてもこの浜で泳ぎ気にはなりませんでした. サンブラス諸島に住む人達はクナ族と呼ばれる人達で,コロンビアやパナマに住んでいたひと達でした.スペインの侵攻から逃げ,島々に暮らし始めたそうです.以下に,この人達を巡る話を,https://en.m.wikipedia.org/wiki/San_Blas_Rebellionからの引用を和訳して記載します.『サンブラスの反乱:グナヤラ地域としても知られるサンブラス諸島は、1903年にパナマ政府が独立を宣言した後、20世紀初頭に大きな政情不安の時代を経験しました。グナヤラ地域はコロンビアとパナマの間に位置し、伝統的に、クナインディアンはコロンビアと協力し、彼ら自身の法律と慣習によって平和に暮らすことができました。パナマの独立宣言に続いて、新政府はグナヤラ地域とその人々を支配し、その代わりに西洋化された「国民的」文化を課そうとしました。パナマ政府によって導入された法律は、伝統的なクーナの習慣と文化に大きな影響を与えました。サンブラス反乱は、クナインディアンがこの支配に抵抗し、パナマ当局と戦うために行った複数の試みで構成されていました。この権力に対する抵抗は1925年の革命をもたらし、27人の死者を出し、その後の米国を含む和平協定を開始しました。』 |
地図1 OSMから |
地図2 OSMから | |||||||
写真1 パナマシティにある国内線専用空港からサンブラスへ行く酷さアイサンゴ礁シンポジウムのメンバー | 写真2 サンブラスの飛行場島 滑走路は550m グーグルアースの画像 | |||||||
写真3 飛行機からみたホテル島 写真の上側がホテルのある浜辺 | 写真4 飛行場島 | |||||||
写真5 小舟でホテル島へ向かう | 写真6 これがホテル 砂浜の上に建つ 浜から突き出た木の頼りない桟橋の先にトイレ | |
写真7 パナマシティ歩道橋から |
写真1,2,4~7 1996年6月 長谷川均 撮影 |