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Vol.2−6   2000年6月号
「渡良瀬遊水池
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 この地は渡良瀬川の他に、三河川が集まり洪水時には水位が急速に上がる。さらに、下流で合流する利根川の洪水時には流れがふさがれてしまうため、もともと洪水が多い地域であった。そこで、1918年に造成されたのがこの渡良瀬遊水池である。しかし、これが政府による鉱毒問題の治水問題へのすり替えだったことは有名な話である。
 栃木県足尾銅山から流出した鉱毒で1880年代後半から渡良瀬川沿岸の農地は著しく汚染された。代議士田中正造や農民たちの運動は弾圧され続けたが、社会主義者やキリスト教徒らの支援が活発化し世論の支持も高まった。政府は、各地の鉱山へ問題が波及するのをおそれ、また政治問題化することをおそれて鉱毒調査会を設置した。そして日露戦争へと、次第に世論の関心が変わるなか、洪水防止の遊水池をこの地に造成することを画策した。
 政府はついに谷中村をつぶし、遠くは北海道のサロマベツ原野などに村民を移住させたのだ。こうして鉱毒問題は、谷中村の消滅や田中正造の死で表面上は終わった。しかし、汚染源対策が不十分なため,鉱毒の被害や足尾山地の荒廃は続いた。足尾の汚染された堆積地が決壊すれば、今後も流域の汚染は再発するといわれている。
 現在、遊水池内の貯水は、農業・工業あるいは上水道用水としても利用され、首都圏のみずがめとしても期待されている。



画像1、 位置図 旧谷中村と記した部分が現在の渡良瀬遊水池   数値地図50m メッシュ(標高)より作成



画像2、ハート型をした調整池(谷中湖)とその北部の草地が遊水池

       <これらの画像の使用は、個人的な目的であってもご遠慮ください>  

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