Vol.4−11   2002年11月号
本州四国連絡橋

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「今月の衛星画像」で使用したデータの中には、「研究利用目的配布」で購入したデータが含まれています。
ADEOS衛星の場合、データ所有および提供は宇宙開発事業団 です。MOS,MOS-1bの場合、データ所有および提供は宇宙開発事業団 です。
LANDSATの場合、データ所有は米国政府、提供はSpace Imaging(R)/宇宙開発事業団 です。SPOTの場合、COPYRIGHT CNES、提供はSPOT(R)/宇宙開発事業団 です。


 瀬戸内海の海岸線が、現在のようになったのは2500年ほど前だという。17世紀半ば以降、沿岸域は塩田の開発などでさかんに埋めたてられた。画像1のほぼ中央にある福山市やその東にある笠岡市周辺の直線的にみえる海岸線は埋め立て地である。
 周囲0.1km以上の島は700程度あるという。そのうち有人島は約150である。島々は小さな割には標高があり、200から300メートル程度あるものが多い。その島々を結んで本州四国連絡橋がかかっている。

 本州四国連絡橋の三つの橋のうち、神戸−鳴門ルート以外の二つが、画像1にある。本州と四国とを結ぶ橋を造りたいという話は、明治・大正時代からあったらしい。それが具体的な計画として地元が騒ぎ始めたのが1950年代半ばからであったという。本州四国連絡橋公団のホームページ(http://www.hsba.go.jp/sikumi/rekisi.htm)に簡単な年表がでている。70年に本州四国連絡橋公団が発足したが、オイルショックの影響で着工が遅れたり、とにかくはじめからケチの付いた計画だったようだ。
 架橋は自治体や政治家、建築家や大手ゼネコンにとっては壮大な夢を実現するおいしい話だったに違いないが、出来上がってみれば交通量も伸びず、次の世代に経済的な大きなツケを残してしまう事業になってしまった。地図に残る仕事をしたいと土建屋さんはよく言うが、このプロジェクトはまさに地図に残り宇宙からもみえる大きな仕事だったことが判る(画像2,3)。本四連絡橋とそのルートの詳細は、公団の次のホームページに詳しい。  http://www.hsba.go.jp/hasi-inf/

 
 

画像1 児島−坂出ルート(右)と尾道−今治ルート 白い枠は画像2,3の範囲を示す
画像2 児島−坂出ルート
画像3 尾道−今治ルート  縮尺が小さくて確認しにくいなら上記の公団ホームページの地図で確認してほしい

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