Vol.3−09   2001年09月号
「大河津分水 −新潟平野の水を抜く−
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  サブタイトルの「新潟平野の水を抜く」は、「日本の川;岩波書店、1986」の表現を借りた。この本によると、新潟平野には100kmの間に人工的に掘られた放水路が14本もあり、世界にも例がない密集度だという。新潟平野はきわめて勾配が緩く、大雨の際には大平野が一面の海原のようになってしまったという。大河津分水は、信濃川下流域の洪水を回避するため江戸時代中期から計画されていたというが、実際に完成したのは1931年(昭和6年)であった。

 大河津分水は、長さ10km、幅は分水口で730mあるが下流に向かって細くなり、河口では180mになる。この理由は河口部の2kmが山地であるため、その掘削土砂量を減らすための工夫だという。そのため、下流側で河床勾配が急になるような構造になっており、そのため洪水時には河口部は急流のようになる。良く知られるように、分水路完成後、新潟平野には様々な問題が持ち上がる。
 まず、信濃川の新潟の河口から排出されていた土砂が分水へ流れ込むようになり、本川河口部で海岸侵食が始まった。新潟平野の地盤沈下がこれに拍車をかけ、海岸線は400m近くも後退してしまった。その一方で分水の河口部では、港湾が浅くなり、海岸線が前進していった(画像2)。また、流量が減ったことにより本川の平常時の流路不安定がおこり、舟運の障害がでて結局舟運は廃れてしまった。また、流路周辺での排水不良などが次々と顕在化してきたのである。何列もの砂丘列で知られた新潟海岸砂丘は消え、無粋な波消ブロックが投入されてしまったのだ。

 
画像1 新潟平野


 画像2 大河津分水 




画像3 信濃川河口

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