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VOL.1-4  1999年10月

「アドリア海の宝石」ドブロヴニクへ
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 10年と少し前、ヨーロッパからトルコ・イスラエル・エジプトへ向かう途中、ユーゴ スラヴィアを訪れる機会がありました。しかしそのときは、まさか数年後に連邦が崩壊して 内戦が始まるなんて夢にも知りませんでしたから、またいつでも来られると思って、ベオグ ラードとスコピエに立ち寄っただけで、あとは次の機会にと先送りにしたのが間違いでし た。ご存知のように、1990年代に入って、ユーゴスラヴィア情勢はにわかに雲行きがあ やしくなり、以前のように気軽に訪れるというわけにはいかなくなったのです。後悔先に立 たずとは、まさにこのこと。行けるうちに行っておかないと、何が起こるかわからないとい うのが、このときの教訓です。
 というわけで、その後、ずっと行く機会を狙っていた国の一つだったのですが、一応(現 在も外務省からは渡航自粛勧告が出ているものの)、もう大丈夫だろうと勝手に判断して、 この夏、ようやくかねてからの懸案を果たすことができました。今回は、その行程のハイラ イトである、アドリア海の船旅の部分をご紹介します。
  この地域に入るにはいくつかのルートがあるのですが、今回はトリエステからスロヴェニ アのピウカを経てリエーカへ入りました。リエーカはクロアチア第3の都市であり、アドリ ア海沿いの主要都市を結ぶ航路の起点ともなっています
(写真A)。その航路の大部分を一 手に握っているのがJADROLINIA(ヤドロリニヤ)という船会社で、今回もリエー カに着いたその日のうちにこの会社の大型フェリーに乗り継いで、一路ドブロヴニクを目指 しました。ちなみにリエーカ〜ドブロヴニクの船賃は149Kn(クローネ、約3000 円)で、一番安い船底の4人部屋キャビンのベッド代が144Knです。


写真A                    写真B                 写真C
   


  リエーカからドブロヴニクへの船は、夏の間はほぼ1日1便出ていますが、この日のスケ ジュールは午後8時出港、まもなく日も暮れたので、軽い食事(31Kn)と缶ビール(1 3Kn)を摂って、早々に休みました。船は夜の間もノンストップで南下をつづけ、翌朝6 時には沿岸最大の都市スプリットに到着
(写真B)。いわゆるダルマチア地方の中心になり ます。このあと船は、夏のアドリア海らしい強い日差しの中、ダルマチアの多島海を縫うよ うに、途中スタリグラードとコルチュラに寄港しながら、目的地のドブロヴニクへ向かいま す(写真C)。青い空・青い海・白い島そしてうだる暑さに飽きてきたころ、午後3時半に ドブロヴニクの新市街にある港に到着しました。
 ドブロヴニクは別名「アドリア海の宝石」とも呼ばれる有名な観光地。夏も終わりに近づ いた頃だったのですが、まだまだ観光客も多く、内戦によって激減したといわれるホテルや レストランも随分と増えているという印象を受けました。ただし、観光客は欧米人とくにイ タリア人が中心で、流石に東洋人の姿はほとんど見かけませんでしたが。内戦によって破壊 されたという世界遺産の旧市街も、かなり復元されて、あるいは修復されつつあるようで す。以前からうわさには聞いていた、城壁から眺める旧市街の美しさも、やはりなかなかの ものでした
(写真D)。このあと、どうしてもドブロヴニク旧市街の全景を見てみたくな り、無茶を承知で、背後にある高さ500mほどの丘へ向かったのですが、これが予想以上 に距離があり、なおかつ人っこ一人いない寂しい道で、暑さのために流れる汗は滝のよう。 ようやく着いた頂上は、以前展望台だったところで、下からケーブルカーが通じていたらし いのですが、内戦の艦砲射撃で破壊されたコンクリートの残骸があるのみの廃虚となり、観 光客の姿もまったくなく、はっきり言って不気味な雰囲気です。しかし、ここから見たドブ ロヴニクの姿は予想通りに素晴らしいもので、大汗をかきながら1時間近く道なき道を登り つづけた価値は十分にありました(写真E)

写真D                      写真E

       

                 <1999年8月、内田 順文 撮影>

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