Back Number をみる

VOL.2-11  2000年11月

世田谷の歴史地理(その1:古代〜近世)
※写真が多いので、電話回線での閲覧は時間がかかります。
このページは、1024×768以上の画面でごらんください。画面が小さいと写真の配列位置がこわれます。

 世田谷の地は大部分が洪積台地上にあって、縄文時代には豊かな森と湧水に恵まれた生活の場であったが、その後の農耕中心の歴史時代にあっては、大部分が開発の遅れた土地であったと考えられる。古代には、南部の多摩川に近い段丘崖上に古墳が立ち並び、その上流に当たる地域に武蔵国府が置かれたことからも、多摩川流域文化圏が形成されたとされる。特に野毛大塚古墳は東国最大級の前方後円墳である(写真A)。            


(写真A)                     


 中世には足利氏の勢力が優勢となる中で、一門の吉良氏が世田谷に居城を構える。写真Bは世田谷城址の現況であるが、中世にははるかに大きな城域であったとみられ、この地域に一大勢力を成した。     (写真B)

(写真B)


  近世になると、世田谷は彦根井伊藩の江戸屋敷賄いの所領が配置されることになった。写真Cは世田谷代官屋敷(写真左手)とボロ市通りである。世田谷代官の大場氏は中世以来の豪族であるが、井伊藩の代官となりこの地を治めた。世田谷ボロ市は中世吉良氏の時代に立てられた市がその起源である。また写真Dの豪徳寺も吉良氏時代の創建であるが、近世には井伊家の菩提寺となった。 (写真C) (写真D)

(写真C)                    

(写真D)


<写真A〜D:いずれも2000年10月、岡島 建撮影>

 Back Number をみる・今月の地理写真バックナンバー