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VOL.4-03  2002年03月

世田谷の歴史地理:その3−交通路の変遷−
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 交通路は、中心都市や水陸交通の結節点から後背地域に放射状に伸びるのが一般的である。世田谷地域は歴史上、広域的な領域支配の中心地となることはな かったので、各時代における中心地から周辺に向かう交通路が通過する地域となっていた。古代には地域の西側にあたる武蔵国府から品川湊などへの道が世田 谷地域を東西に通過したと考えられるが、確かな経路は不明である。中世には地域の南方にあたる鎌倉から関東各地を結ぶ鎌倉街道の主要三道のうち中道が世 田谷を南北に貫き、ルートも断片的には推定されているが、現在の世田谷地域においては街道の遺構を認めることはできない。中世末には地域の西南方にあた る小田原(北条氏居城)からの道が世田谷に通じ、現在の上町にあたる世田谷新宿に市立てがなされた。これが現在の世田谷ボロ市の起源である。近世には地 域の東方にあたる江戸からの五街道の一つ甲州街道が地域の北辺を東西に通り、高井戸には宿が置かれた。また江戸からの大山参詣の道であり、東海道のバイ パス機能も果たした大山街道(矢倉沢往還)が地域の中央を西南方へと通じた。中世以来の大山街道の旧道と新道が分かれる三軒茶屋は、その名の通り三軒の 茶店があった所で、分岐点には道標が置かれていた。地域の南辺を流れる多摩川には青梅方面からの材木や林産物を江戸に輸送する水運が通じ、二子などには 河岸場もあった。

 写真Aは、国分寺市内の旧鎌倉街道(上道)で、かつての景観を残す場所とされている。
  写真Bは、現在の世田谷ボロ市の様子であるが、年1回の古物市 となった明治以降にボロ市と称されるようになった。

       
(写真A)                                   (写真B)


写真C(下左)は、現在も三軒茶屋交差点に立つ大山街道の道標である。近代の道路改修で多少の位置の変更はあるが、寛延9年(1749)に立てられたものである。
          
    
    (写真D)

  

    (写真E)


 近代になると鉄道の建設が各地で始まり、この地域でも大山街道沿いに1907年玉川電気鉄道、甲州街道沿いに1913年京王電気軌道が開通したが、これら の鉄道が開業した頃の世田谷地域は近世以来の農村地帯であり、当初は多摩川の砂利を東京に運ぶことを主たる目的とした鉄道であった。しかし1923年の関 東大震災の前後より、東方の東京からの都市化・住宅地化の波が世田谷地域にも及び、東京の郊外地域としての整備が図られるようになった。
 
 写真Dは、玉川電鉄の支線で1925年に開通した世田谷線の近年の姿で、昨年まで旧型電車が走り往時を偲ぶことができた。
 写真Eは、東京都市計画幹線道路の環状七号線の現況で、昭和初期に計画決定され用地買収が行われた。 


(写真A:1993年10月、B:2002年1月、C:2001年4月、D・E:2001年1月、いずれも岡島 建撮影)


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