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VOL.12-11  2010年11月

歴史と芸術の都:ウィーンの歴史地区

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 ヨーロッパの三都といえば諸説あるようですが、ローマとパリと・・・歴史の浅いベルリンでも、ヨーロッパの中心から外れたマドリードでも、ましてや工場と煤煙の町ロンドンであるはずもなく、間違いなくオーストリア・ハプスブルク帝国の都ウィーンであると、私は確信します。どういうわけか日本人にはあまり知られていないので、行ったことのある人の数がロンドンやマドリードに大きく離されていることが不思議ですが、もし一度でも行ったことがあれば、この街がまぎれもなくヨーロッパを代表する「都」であることに異論を唱える人はないでしょう。
写真1 王宮とフランツ1世像 写真2 ウィーンのシンボル、聖シュテファン大聖堂
写真3 グラーベンにあるペスト記念柱 写真4 ベルヴェデーレ宮殿
 ウィーンの起源はローマ帝国の植民都市として始まりますが、この都市を華麗な宮廷文化の中心としたのは、13世紀後半以降600年以上にわたってウィーンを首都としたハプスブルク家の力によるものです。そのハプスブルク家が居城とした王宮は今も旧市街に残っています(写真1)。旧市街の中心部には、15世紀に完成したドム(聖シュテファン大聖堂)が高くそびえ立ち(写真2)、中世からの目抜き通りであるグラーベンには、17世紀後半ウィーンで流行したペストの終息を記念して建てられたペスト記念柱が残っています(写真3)。また、旧城外には1722年に夏の離宮として、バロック様式のベルヴェデーレ宮殿が建設され、ウィーンは名実ともにヨーロッパを代表する都となりました(写真4)。
写真5 国立歌劇場 写真6 フォーティフ教会
写真7 ブルク劇場 写真8 歴史工芸美術館とマリア・テレジア像
 そんな中世都市ウィーンが劇的に変化するのは、1857年フランツ・ヨーゼフ1世が、城壁を撤去し、その跡地に広大な環状道路(リンクシュトラーセ)の建設を命じたことに始まります。その結果、環状道路沿いに次々と新しい建築物が建てられ、現在の風格あるウィーン市街が形成されることになりました。まず1868年にはネオ・ルネサンス様式の国立歌劇場(オペラ座)が完成(写真5)、1879年にはネオ・ゴシック様式のフォーティフ教会が(写真6)、1888年にはネオ・バロック様式のブルク劇場が建設される(写真7)など、リンクシュトラーセの景観はさながらヨーロッパ建築史の博物館とも言える状況を生みだしたのです(写真8)。ウィーンの独特な雰囲気を支えているのは建築物だけではありません。リンクシュトラーセ周辺には多くの緑地も設置され、その後の市民の憩いの場所ともなりました。ブルク庭園(写真9)や市民公園(写真10)などがそうです。
写真9 ブルクガルテン、モーツァルト像 写真10 市民公園、シュトラウス像
 こうした環境の中で、18世紀から20世紀にかけて、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ヨハン・シュトラウス、ブラームス、マーラーといった音楽家や、クリムト、エゴン・シーレ、ココシュカといった画家たちが活躍し、ウィーンはパリとともに「芸術の都」と呼ばれることになったのです。彼ら芸術家たちの多くは、ウィーン郊外の中央墓地に眠っているので、ここもウィーンを代表する観光地となっています。永遠の名作「第三の男」のラストシーンの舞台としても有名ですね(写真11)。
写真11 中央墓地、「第三の男」の並木道
(1990,1992年 内田順文撮影)

                                              

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