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VOL.13-01  2011年01月

日本の運河遺構(その3) 

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 世界の内陸輸送機関の一つとして河川運河があり、それは産業革命期前半の大量輸送において大きな役割を果たした。日本においても近世までの米などの輸送手段として河川水運は重要であり、運河が建設された地域もある。近代の産業化、都市化の過程においても運河の利用は大きな意味を持ち、その役割を期待されてきた。日本各地の運河遺構のうち、近世の事例として岡山県の倉安川吉井水門、近代初期の事例として宮城県の北上運河石井閘門、近代末期の事例として岐阜県の大垣運河を取り上げる。
 
 倉安川は、岡山の北方で吉井川と旭川を結ぶ約20キロの運河で、灌漑と年貢米輸送を目的に1679年に開削された。吉井水門は、吉井川からの取水口にあたり、吉井川の堤防に築かれた「一の水門」と、倉安川側の「二の水門」、その間の「高瀬廻(まわ)し」と呼ばれる船だまりから成る。二つの水門によって水位差の調節を行い通船する閘門式の水門である。写真Aは「一の水門」で、手前の水面が「高瀬廻し」、堤防の向こう側が吉井川である。写真Bは「二の水門」で、手前が倉安川になる。写真Cは灌漑用の水車が並ぶ倉安川で、右奥に見えるのが「二の水門」である。
<写真A>
<写真B>
<写真C>
 北上運河(写真D)は、大久保利通による殖産興業政策下において東北開発の拠点としての野蒜築港が1876年(明治9)に決定されたが、江戸時代から内陸水運の盛んであった北上川から野蒜へと、水深の浅い石巻の河口港や天候に大きく左右される外洋を通らず安全に航行できる内陸水路として1880年に開削された。石井閘門(写真E・F)は、北上川側の船舶通過用水位調整施設として建設された日本最古のレンガ造り西洋式閘門で、1884年の台風により野蒜港は被災し閉鎖されたが、北上運河はその後も使用され、現在でも航行することができる。この運河開鑿と閘門設置事業を行ったのが、当時の土木局長石井省一郎であり、閘門は彼の名を取って石井閘門と名付けられた。

                                <写真D 右>






<写真E 下>                        <写真F 右下>



 大垣運河(写真G)は、1937年に大垣都市計画の中で事業決定されたもので、石炭,建築材料,食糧品や米穀を集散する大垣湊(写真H)と石灰石産地のある杭瀬川(写真I)を結んで、工業原料等を輸送することが計画されたもので、工業都市としての発展を目指したものである。中間地点では養老鉄道西大垣駅(写真J)で鉄道との連絡も考えられたものであった.しかし,戦時体制の中で工事用材料の入手も困難となり、工事は中断され,戦後は排水河川として機能した(写真K).
 


<写真G  左>

 








<写真H  左下>           
                       <写真I  下>


<写真J>   <写真K>
(写真A~Cは1999年10月、D~Fは2003年10月、G・H・J・Kは2004年9月、Iは2006年10月、いずれも岡島 建撮影)
                                           

                                              

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