2005年のわたし 長谷川 均

2005年は正月明けから猛烈に忙しく(時間の使い方がヘタなどだという人もいる)、ホームページの更新も出来ないまま季節は秋だ。関係ないが、肩が痛くて泳ぐこともできない。ヤレヤレ。忙しい忙しいと言いながら、毎日ブログに書き込んでいるヤツの気が知れない。HPの更新は、もう面倒くさいので旅行中に書いて使うアテの無くなった雑文でごまかすのだ。仕事場でのことはニューズレターを参照してくだされ。

Back to the sea 死海の向こうに夕陽が沈むのだ 打ち上げ成功。撮影失敗。 失敗続きでオレは毎日頭が痛い 普通じゃない双眼鏡。気になってしょうがないので近々購入の予定 内緒で買った7代目。NikonD70のサブのつもりが主役になった 一昨日、使うアテもないのに重さに惹かれて買ってしまった


酷いホテル

酷(むご)いというのは、悲惨で残酷で無慈悲でひどい ということだろう。ここへ来るとき、シャンペンを飲みながら、自腹ではないビジネスクラスの座席にいい気持ちで横になっていた。ウトウトしながら読んだ雑誌に、いしかわじゅんが竹富島の酷い民宿の話を実名入りで書いていた。それほど彼は怒っているようなのだ。

わたしは若いとき、おそらくこれより酷いと思われる久米島の宿に、三シーズンそれぞれひと月以上過ごしたことがある。この民宿には入れ替わり立ち代り、「こんなとこ、もうゼッタイこないわ」と不満をぶちまけるおネエちゃんたちが泊まっていたから注1)、当時若くてそこそこだった(と思われる)わたしは、話し相手に困らず、時には一緒に遊びに行ったりしてけっこう楽しく過ごした。したがっていしかわじゅんの話は、すべて他人事に思え、お気の毒にと思いながらテレビや雑誌に出る人たちはこの程度で怒り狂うのかと思って読んだのだった。いしかわじゅんだってきっとウケをねらって書いているのだろうけれど。

関空から出てドバイで乗り換え、一日かけてヨルダンに来た。前に来たときは冬から春に変わる頃で、乗り換えたシャルルドゴールは雪だった。こんどのドバイはすごい湿気だ。まだ薄暗い明け方、飛行機が着陸したとき窓の外を見て雨でも降っているのかと思った。アラブ女性の笑顔に見送られてタラップに出たら、サウナ風呂のような熱気と湿気。中東でこんなのアリかよ・・・と独り言。乗り合わせた日本人たちが「雨ですよアメッ!」と叫ぶ。霧だよ。

いまわたしは、ウム・カイスというヨルダン北端の人口五千人ほどの村にいる。暑い。昼下がりにはほとんど人影が無い。今日の気温は四十二度だという。世話になっているアリさん注3)が「どうだ暑いだろう」という。こんなの日本にだってアリだぜと強がりを返すが、夏の沖縄で鍛えたつもりの身にもつらい。食い物が悪い注2)せいもあり、腹はずっとお祭りだ。

さて、そろそろ酷いホテルの話をしよう。このホテルは「地球の歩き方」に載っていない。賢明なことである。フランスやドイツのガイドブックには載っているらしく、多くはないが客は来る。春この地に一ヶ月いたとき、この村にもホテルがあるじゃないかということになった注4)。それで、この夏はホテル泊まりだ。わたしは一ヶ月間だが、ここに二ヶ月泊まる連中もいる。ご愁傷様だ。いろいろひどい宿を経験してきたから、わたしはふだん、旅先の宿に文句をつけることはない。ここだって、一、二泊なら大丈夫。酷さが見えないかもしれないから。

ホテルの入口 外壁にペンキで「ここがウムカイスホテルじゃ」と書いてある。右側のドアは???。ドアがあったなんて、写真を見て初めて気がついた。

  さて、愛すべきウムカイスホテルには、サービスというものが皆無。シーツを代えろというと金を要求されるかもしれない。それほどの勢いである。従業員はいつも私服のまま薄暗いロビーのソファで寝ているか、テレビの歌番組にあわせて腰を振っている。自称25歳という、この人だけが英語を話す女のマネージャーが仕切り、配下の若い男3,4人を使っているが皆やる気が無い。まじめに、やることだけはやっているぞというところが見えないから腹が立つ。

朝食だけは出すという約束だったのにそれも無い。近くの街に住むという老オーナーは時々やってくるが言葉が通じない。黙々と屋上の植木の世話だ。部屋には古ホテルにありがちな様々な不具合があって、最低限のホテル暮らしもままならない。不具合の手当は二回くらい催促するまで無い。チップは捨てるようなものなので、もうとっくに止めている。

寒村に金を落とすのは我々の努めであると思いたい。しかし、・・・・。書き連ねると惨めになるのでもうやめる。移れるなら移りたい。しかし、ここには他に泊まる場所が無い。これがまた惨い。いまキッチンへいった。ストックしてある使いふるしの割り箸に、ゴキブリらしきものが絡まったまま死んでいた。見なかったことにした。

目に見えない何かが、廊下で歩きだす前に眠りにつきたい。それにしても暑い。天井の大きなファンは、ぐらぐら揺れながら回っている。落ちたら下で寝ているおれは血だらけだろうな・・。辛いことは考えないことにして寝てしまおう。

注1)当時、リゾートホテルに泊まるパックツアーは今ほど安くなく、民宿は若いやつが普通に泊まる場所だった。
注2)みずからかってでて作ってくれている料理自慢のT氏のせいではなく、食材や水が不潔なだけ。でも、しょせん「おとこの料理」。文句を云うと、だったらお前も手伝えといわれるだろうから、ありがたく頂戴している。それにしても、今日もジャガイモか・・。
注3)立派な口ひげをたくわえ、年恰好はわたしより上に見える。でもたぶんもっと若い。ヨルダン川西岸出身のパレスチナ難民にして有能なエンジニア。勤め先には、難民キャンプから片道72キロの道を毎日自家用車で通ってくる。家に金が無かったので、大学はインドへ。国内の大学へ行くより安いという。ヨルダンでは大卒でも勤め口が無く、気が利くやつは外へ出ると嘆く。誰か死なないと勤め口が生まれない。彼自身はラッキーにもそれにありつけたのだという。
注4)前も(大学新聞に載せたやつはきれいごとを書きすぎた)今回も「イラク復興支援」というJICAプロジェクトで、イラクとヨルダンの若い考古学博物館員の研修をやっている。前に来たときは、オスマントルコ時代から続く豪農屋敷を使いまわしているという、博物館のワーカー部屋が宿舎だった。三食付だったけれど、首都の中級ホテルと同じくらいの部屋代を払い続けた。値段に見合わぬこれまた辛い宿だった。わたしは、自然地理やRSGISの研修を担当する。イラクで研修するのが本来のやりかただが、現状では死ににいくようなものなので隣国のヨルダンなのだ。各国のイラク向けプロジェクトがヨルダンでは目白押しで、この国は大いに潤っている。この仕事、給料に相当する手当てはもちろん出る。しかし、苦労と労力と準備、常日頃の仕事の中断や出費をハカリにかけると、とても人に勧められるようなものではない。地理学者のサガで、初めての土地にはどうしても行ってみたいという気持ちが先走って来ているようなもの。まぁ面白いところではあるけれど。


ブルースシンガー

街のCD屋にはジャズやクラシックが極端に少ないから、本を探すついでにアマゾンでCDも買うようになってしまった。学生時代に、たった一度だけ聞いてそれからずっと探していたフィービースノーのサンフランシスコベイブルースの話をゼミの最中していたら、しばらくたって当時の院生に「アマゾンにありましたよ」と教えてもらった。それがきっかけだ。

これを書いていて、そうだ探さなくては思い立ったのが「カンサツシティー・エクスプレス」。だれもほめるのを聞いたことも読んだこともないけれど、ジャズの名盤だと思う。LPを持っているが、しばらく使わないうちにプレーヤーが固まってしまって、もう十年くらい聴いていない。このレコードは、院生時代になじみだった店が潰れるとき、店主のチョウメイさんが「あんたがいつも聴いていたものだから、あんたに買ってほしい」といわれて引き取ったものだ。

院生時代の楽しみは、サントリーホワイトを飲みながら神楽坂のこの店で月に二、三度ジャズを聴きながらバカ話をすることだった。わたしが大学院に入った当時、なぜか大学院だけはミンセイの先輩諸氏がでかい顔をしており、機動隊に捕まった後輩の支援をしていたわたしは、あっちへ行けよというような顔をされて、ある時から居場所が無かった。「ピンポンやって革命ができるか、ばぁーか」などと、かげで云っていたわたしもガキだったけれど。だから、何かしら理由を付けてはジャズ好きな後輩Mが見つけてきたこの店に行っていたのだ。ところでこの先輩諸氏はみんな教員になった。教頭や校長になった人もいると聞くが、今頃は日の丸を拝みながら「国歌」を歌わせているのだろう。

チョウメイさんは当時、どうしようもない自堕落な男で、妻子ある身にしてバイトの子や客とできてしまい、けっきょく奥さんに捨てられたんじゃなかったか。そのあげくに店を潰してしまった。彼はわたしの反面教師だ。みずからも自堕落なわたしは、このことを教訓にしようとおもった。ずいぶんしてから、ショルダーバックを斜めにかけた情けない格好の彼に中目黒で偶然出会った。「まじめに、社長の運転手をしているんだ」といって焦点の定まらない目で少し離れたビルのほうを見た。いまどこで何をしているのだろう。これもずいぶん昔のはなしだ。

 フィールドに出て時間ができたとき何を聴くか・・。いま、ちょっとタバコを一本くれよと院生の部屋を覗いたら、G君はまじめにパソコンで仕事をしながら明日の準備をしている。PCからは音楽が漏れている。「それ、なんだ」と聞いて教えてもらったが、思い出せない。ボケだ。

 音に凝っていたころ、将来は地下室付の自宅で思う存分聴くぞと思っていた。ところが狭い我が家では、四畳半の自室でスピーカーを鳴らすことすらはばかられる。「パパうるさぃっ」と娘に怒られる。育て方を間違った。CDの音をPCで作り直し、醜いデザインのプレーヤーに詰め込み、通勤電車の中で遠慮しがちに聴く。これが日本のプロフェッサーの生活なのだよ。と思っていたら、さっきのG君は「先生方のなかで、先生がいちばん貧しいですよねぇ」という。余計なお世話だ。オレは無駄遣いが好きなんだ。それにしても彼ら、そんなに金持ってるの? ケチなだけだろう???

ところでブルースシンガー田端義夫のことを書かねばならない。このひとのCDがアマゾンの検索で思いがけずヒットし、わたしは買ってしまったのだ。アマゾンの検索は巧みだ。思いもかけないものがひっかかる。そして予想だにしないものを買わされる。さいごにカミさんに怒られる。

田端義夫はわたしが子供の頃から「懐メロ」番組にしか出てこない人だった。このひとのCDを買うことになるなんて、ひとが聞いたらお前もついにジジイかと言われてしまう。今おいくつなのか知らない。相当なご老人だと思う。ひょっとしたら、わたしが長旅に出ているこの最中にも病魔で臥せっているかもしれない。あぁ心配だ。あと、二、三枚は新譜を出してもらわなければならない。わたしはそれほどまでに田端義夫をかってしまったのだ。ジャケットでご老人は、木陰で素敵なアロハを着た似顔絵で微笑んでいる。いいんじゃないかぁ? 。一期一会。思わずカートに。それが出会いというものや。

このCDは旧譜の焼直しに新譜をすこし混ぜたものだ。まぁ少し安直なつくりといえる。後者ではビギンや夏川りみ、森山良子などを歌う。もう息も絶え絶えだ。音についていけない。ふつうならテイク・スリーで、プロデューサーがボツ宣言するような歌と思われる。ところがこれが、みょうな歌に化けている。幾多の人生経験をつんだやつならきっと泣くぜ。作らせて売らせたほうも偉い。すばらしい。

 日本のブルースシンガーといえば、新井英一でしょうと思っていた。ただ、新井の歌は重くて、聴きこむと胃まで重くなる。せいぜい年に一、二度でいい。そのてん、田端義夫センセイの「島唄2」は週一でも大丈夫。これは平成歌謡初期の名盤や。昭和の旧譜もせつなく哭かせる。おそるべし老ブルースシンガー。たまにはだまされてみなはれ。長旅の終わりに聞くと涙が出るぞ。