佐倉吟行  

鷲野正明

 

 前日の暴風雨が収まり暖かい青空の広がった平成22年12月4日(土)千葉県漢詩連盟会員の有志とともに歴史文化の残る佐倉を散策した。午前10時30分京成佐倉駅に集合した16名の会員は、まず「佐倉順天堂記念館」を訪ねた。

「順天堂」は蘭医・佐藤泰然(1804〜1872)が蘭医塾兼外科の診療所として天保14年(1843)に創設したもので、現在の記念館の建物は安政5年(1858)に建てられたものという。二代目は佐藤尚中(1827〜1882)。旧姓は山口氏で小見川の出身である。

尚中の父親は山口尚褧(しょうけい)で、詩人の梁川星巖(1789〜1857)とともに山本北山(1752〜1812)の奚疑塾で学んだ。星巖が天保12年(1841)妻の張紅蘭を伴い房総を旅したさい、小見川にわざわざ尚褧を訪ねている。時に星巖は53歳、尚中は15歳であった。尚中は、天保13年(1842)江戸に出て泰然に入門、その翌年泰然とともに佐倉に移り、才能を買われて泰然の養子となり、順天堂を継承したのであった。

  創業守成倶甚難  創業 守成 倶に甚だ難し

  泰然愛秀子孫完  泰然 秀でたるを愛して 子孫も完(まった)

  順天固是孝仁道  天に順ふ 固より是れ孝仁の道

  醫學當期民衆安  医学 当に期すべし 民衆の安らかなるを

記念館には泰然をはじめ順天堂を支えた人々の紹介・写真のパネル、書籍、手術道具、顕微鏡などが展示されている。展示の一つに「順天堂規則」があり、禁止するものとして「吟詩唱歌、碁将棋、外宿、諸物乱用、禁史卑稿、飲酒」が挙げられていた。扁額や書軸も多く、佐藤泰然の五男・林董(はやし・ただす、1850〜1913)の「釣月耕雲」の横額も飾られていた。董は幕府医官の林洞海(1813〜1895)の養子となり、イギリス公使として日英同盟を締結し、後に外務大臣になった。ちなみに泰然の次男・良順(1832〜1907)は松本良甫の養子となり、初代陸軍軍医総監になっている。

 吟詩禁處掲詩篇  吟詩禁ずる処 詩篇を掲げ

 扁額淋漓墨痕妍  扁額 淋漓として墨痕妍なり

 蘭学曾榮房総地  蘭学 曾て栄ゆ 房総の地

 漢文非有竟無賢  漢文有るに非らずんば竟に賢無し

車の多い街道を避け裏道を通って「旧堀田邸」へ。堀田邸は、佐倉藩最後の藩主・堀田正倫(1851〜1911)の邸宅である。維新後正倫は華族として東京に住んでいたが、国の基となる農業と教育の発展に尽くそうと、明治23年(1890)佐倉に邸宅を構え、明治30年堀田家農事試験場を作った。往事の邸宅は農事試験場を含めて約3万坪の広さがあったという。邸宅の出入り口は3つあり(往事は5つ)、身分や格式によって使い分けられていたという。同様に、部屋の壁土や欄間、床の間、釘隠しなども身分と格式に合わせて設えられ、疊敷きの廊下もある。疊の総数は201。湯殿に接する化粧の間(脱衣所)では障子戸を開けると庭が眺められる。客座敷の大きい戸には、明治時代の、ちょっと歪んだガラスが嵌められており、座ったままで美しい庭が眺められる。この日は、紅葉した木々が冬日の逆光に輝いていた。家族が生活する居間棟や書斎棟(非公開)の造りは特に意匠が凝らされ、インド更紗をあしらったり、七宝焼きを張り詰めたりした所もあるという。

 啼鳥繞軒冬日和  啼鳥軒を繞りて冬日和らぎ

 主君舊第匠心多  主君の旧第 匠心多し

  坐看明治玻璃外  坐して看る 明治の玻璃の外

殘葉揺風奏古歌  残葉 風に揺ぎ 古歌を奏す

 「川瀬屋」で昼食。伯梁体に取り組んだあと、堀田家の菩提寺「甚大寺」、佐藤泰然の菩提寺「宗円寺」を参詣、街道を少し歩いて「武家屋敷」へ。武家屋敷の規模や様式は、藩士の身分によって違う。見学できる「武家屋敷」は、大屋敷の「旧河原家住宅」、中屋敷の「旧但馬家住宅」、小屋敷の「旧武居家住宅」である。なお、「旧河原家住宅」と「旧武居家住宅」は、現在の地に移築復元したものである。

「くらやみ坂」を下り、佐倉城址へ向かう坂を上がると「佐倉藩校跡地」。碑を確認して「佐倉城址公園」へ。本丸跡には県指定の天然記念物「夫婦もっこく」の喬木がそびえている。幹には「昭和十八年十月」「砲隊」と落書きが彫られているというが、木の周りに柵があって見ることはできない。しばし散策ののち国立歴史民族博物館を横目に見ながら「姥が池」へ。「姥が池」は、江戸時代にはカキツバタの名所だったという。昔、春になると近在のヒキガエルが数千匹集まり、左右に分かれて昼夜七日間蛙合戦を行っていたという。のち天保年間、この池のまわりで家老の娘をお守りしていた姥があやまって娘を池に落としてしまい、娘がそのまま沈んでしまったので、姥も池に身を投げた。それ以来この池を「姥が池」と呼ぶようになったという。池の近くの畑で一老人がカキツバタを植えるための畦作りをしていた。

 姥與女兒池下沈  姥と女児と池下に沈み

 百年涙積水深深  百年 涙積みて 水深深たり

 春來應是清魂出  春来 応に是れ 清魂出で

 萬花紅紫夜中尋  万花の紅紫 夜中に尋ぬべし

話に花を咲かせながら薄暗くなった街道を京成佐倉駅まで行き、駅で解散。約1万6千歩の楽しい散策であった。

 

 

 

 

 

 旧堀田邸 明治のガラス戸越しの庭

 

 

 

 

 カキツバタを植える畔を作る