伏 せ 姫 桜― 市川・真間 漢詩創作紀行― 

鷲野正明

 平成191021日(日)雲一つない秋晴れのもと、国士舘大学の学生4人と千葉県漢詩連盟の会員15名とともに市川(いちかわ)真間(まま)方面を散策した。

午前10時、一同JR総武線市川駅に集合。市川市のボランティア2名の説明を聴きながら、真間(まま)()ぎ橋、手児奈(てこな)霊神堂、亀井院(かめいいん)真間(まま)()弘法寺(ぐほうじ)伏姫(ふせひめ)(ざくら)などを見学。昼にはふたたび手児奈霊神堂に戻り、同じ敷地内の稲荷神社社務所で昼食をとりながら柏梁体連句に取り組んだ

午後は、芳澤(よしざわ)ガーデンギャラリーで(かく)(まつ)(じゃく)展を見学()和田(わだ)公園郭沫若の「別須和田」(須和田に別る)」のんだ、郭沫若旧居へと歩を進めしばし見学後、坂道を上って今は国府台スポーツセンター駐車場になっている下総(しもうさ)総社跡を確認、ついで里見公園へと歩いた。総寧寺(そうねいじ)国府(こうの)(だい)天満宮(てんまんぐう)を見学参拝里見公園内に入って明戸(あけど)古墳石棺、夜泣き石、紫烟(しえん)草舎(そうしゃ)など見て回った

夕暮れ時、噴水の周りの薔薇を見ながら休憩。連盟の会員は帰途に就くことになったが、私と学生4人、ボランティアの1名は夕陽に染まる江戸川沿いを市川駅まで歩いて、午後5時ころ一日の散策を終了した。




 真間の継ぎ橋、手児奈靈神堂

 JR総武線市川駅から少し北に歩くと、東西に国道14号線が走っている。これは大化の改新後、国府(こうの)(だい)(真間山)に置かれた下総の(こく)()を往来する官道「東海道」だったいう。今日とは異なり、相模、上総、下総、常陸(茨城県)を結ぶ道東海道と言っていのだ
 「東海道」はちょうど「市川砂州」の上を通っていて、ここから南には「真間の浦」、北には「真間の入り江」、さらにその北には「真間の台地」があった。西には、北から南に洲を作りながら川が流れ、「真間の浦」へと注いでいた。これがのちに「(おお)()川」、さらには「江戸川」と呼ばれるようになる

 「真間の入り江」は、北の「真間の台地」と南の「真間の浦」の間の低湿地帯に河水が滞留してできたもので、「江戸川」に大きく口を開いた形になっていた。ここにもいくつもの洲があり、「真間の継ぎ橋」は、洲から洲に架けられた橋と考えられている。

現在は、JR総武線市川駅から国道14号線を横切り、「弘法寺(ぐほうじ)の大門へと続く「大門通り」を北に進み、「真間川」の「入り江橋」を渡るとまもなく「継ぎ橋」推定地に、小さな朱の欄干と「つぎはし」と刻された石碑が立っている。橋とは言いながら、道路の両端に朱色の欄干が建っているだけで、水は流れていない。

    眞間繼橋      真間(まま)(つぎ)(はし)

  眞間山下碧漣中   真間(まま)山下(さんか) (へき)(れん)(うち)

  娘子投身俗事空   娘子(じょうし) ()(とう)じて 俗事(ぞくじ)(むな)

  今乃路傍無水處   (いま)(すなわ)ち 路傍(ろぼう) (みず)()(ところ)

  潺湲如聽緑陰風   潺湲(せんかん) ()くが(ごと)し 緑陰(りょくいん)(かぜ)

 

「つぎはし」から少し北に歩くと、右手に「手児奈(てこな)堂」と刻された碑が建っている。「手児奈」は伝説の美女。「真間の井」に水を汲みにきた手児奈を見た村人たちが次々に求婚し、我こそ男性が争うのを見て、手児奈は憂えて「真間の入り江」に身を投げたと伝えられる。石碑をに道を取ると参道に導かれ「手児奈霊神堂」に至るこのあたりが手児奈の奥津(おくつ)()(墓)の跡と伝えられ、戦国時代、弘法寺の日与上人が手児奈のに感じて建てたという。堂のかたわらに池がある。これ「真間の入り江」の名残で、その昔手児奈の白鳥のような屍を浮かせたところだそうである。葦の葉も悲しんで、今もみな一方にばかり靡いている。「片葉の葦」と言う。

    手兒奈靈神堂    ()()()(れい)(しん)(どう)

  片葉葦蘆猶儼然   (へん)(よう)葦蘆(いろ) ()(げん)(ぜん)

  小池留涙魄歸泉   小池(しょうち) (なみだ)(とど)めて (はく) (せん)()

  游人閑坐日當午   游人(ゆうじん)(しず)かに()せば () ()()たり

  風暖微開白睡蓮   (かぜ)(あたた)くして (かす)かに(ひら)く (はく)睡蓮(すいれん)

 昼前に訪れたときには開いていなかった白睡蓮が、昼食後に見るとわずかに開いていた。



        つぎはし











手児奈霊神堂


亀井院真間の井

手児奈が水を汲んだという「真間の井」は、「手児奈霊神堂」と道路を挟んで斜め北の「亀井院」にあったと推定されている。ちょうど「真間の台地」の下にあたる。その昔、都からはるばる「東海道」を下ってきた人々は、いくつもの「継ぎ橋」を渡り、井戸で咽を潤し、手児奈に思いを馳せたのであろう。『万葉集』には、山部赤人や高橋虫麻呂の歌が載せられている。平安時代の藤原俊成や鎌倉時代の鴨長明、藤原定家、源実朝も和歌を残している。「亀井院」は、北原白秋が大正5年5月中旬から一月半ほど、二人目の妻江口章子と暮らしていたことでも知られる。

    眞間井       真間(まま)()

  井邊蔌起秋風   (せい)(へん)(そく)(そく)として秋風(しゅうふう)()こり

  夕日將沈萬木紅   夕日(せきじつ) (まさ)(しず)まんとして (ばん)(ぼく)(くれない)なり

  娘子游魂何處有   娘子(じょうし)(ゆう)(こん) (いず)れの(ところ)にか()

  只看汲暮煙中   ()()る (きゅうこう) ()(えん)(うち)



      真間の井


弘法寺、伏姫桜

 大門通りをまっすぐ北上すると弘法寺の大門に至る。亀井院からは大門通りに出て右に曲がるとすぐのところである。大門に立つと目の前に急な石段がそそり立ち、視界をさえぎる。石段を二十数段登ると、左から二つ目の石がいつも濡れている。「涙石」という。石段を登りきると仁王門があり、弘法大師の真筆と伝えられる額が掲げられ、運慶作と伝えられる黒体の仁王像が門を守護している。寺の建立は、天平9年(737)行基菩薩がこの地に来たとき、手児奈の話を聞いて一宇を建てて「求法寺(ぐほうじ)」と名づけ、のち平安時代の弘仁13年(822)弘法大師が七堂伽藍に再建して「弘法寺(ぐほうじ)」と改称したという。日蓮上人親刻の大黒天が祀られている。境内には樹齢四百年の枝垂れ桜があり、伏姫(ふせひめ)(ざくら)」と呼ばれて親しまれ、花見の季節には多くの人で賑わう。

    伏姫櫻 其一    (ふせ)(ひめ)(ざくら) 其の一

  老樹相聞四百年   老樹(ろうじゅ) (あい)()く ()(ひゃく)(ねん)

  眞間山上廟堂前   真間(まま)山上(さんじょう) 廟堂(びょうどう)(まえ)

  根如蹲虎鎭臺地   ()(そん)()台地(だいち)(しず)めるが(ごと)

  幹若飛龍御九天   (みき)()(りゅう)九天(きゅうてん)(ぎょ)するが(ごと)



    伏姫櫻 其二    伏姫桜 其の二

  垂絲櫻葉已疎疎   (すい)()(おう)(よう) (すで)()()

  秋日人稀樂有餘   (しゅう)(じつ) (ひと)(まれ)にして (たの)しみ(あま)()

  想得伏姫朝醉處   (おも)()たり 伏姫(ふくき) 朝酔(あさよ)(ところ)

  嬌姿繚亂向風梳   (きょう)姿() 繚乱(りょうらん) (かぜ)(むか)って(くしけず)るを


     涙石

      仁王像

        伏せ姫桜

郭沫若記念館

 「手児奈霊神堂」「亀井院」を東へ百メートルほど進み左折すると、()和田(わだ)公園に着く。この辺りの段丘は須和田台と呼ばれ、弥生時代中期から平安時代初期に至るまでの遺跡が発掘されている。公園内には、中国の歴史家・文学家・政治家として活躍した (かく)(まつ)(じゃく)詩「別須和田」を刻した記念碑と郭沫若のレリーフがある。郭沫若は、昭和3年(1928)から10年間須和田で亡命生活を送り、帰国して抗日戦に参加した。碑に刻された詩文は、昭和30年(1955)に再来日した時の感慨を詠んだものである。

 公園から北に行くと、郭沫若記念館がある。須和田六所神社近くにあった旧居を移築復元し、記念館としたものである。

     郭沫若故居     (かく)(まつ)(じゃく)()(きょ)

  聞昔地偏荒草   () (むかし) ()(へん)にして (こう)(そう)(めぐ)

  無人訪問鎖柴荊   (ひと)(おとな)()()く (さい)(けい)(とざ)すと

  滿庭今日秋櫻笑   満庭(まんてい) 今日(こんにち) (しゅう)(おう)()

  胡蝶留連弄午晴   胡蝶(こちょう)留連(りゅうれん)して ()(せい)(もてあそ)

  


     郭沫若 碑

 

里見公園

 江戸川を見下ろす絶好の地にある。この辺一帯は、国府(こうの)(だい)合戦の古戦場で、園内には土塁や空堀の跡とされる場所がある。

 国府台合戦は、2回行われた。第一次合戦は、天文7年(1538)、北条(ほうじょう)(うじ)(つな)足利(あしかが)(よし)(あき)の間でくり広げられた。古河(こが)公方(くぼう)足利(あしかが)高基(たかもと)小弓(おゆみ)公方(くぼう)足利(あしかが)(よし)(あき)との兄弟の対立から始まり、北条氏綱高基に加勢し、義明をやぶった。義明は子息らと討ち死にし、小弓公方家は滅んだ。第二次国府台合戦は、永禄7年(1564)、武蔵への進出をねらう里見義堯(さとみよしたか)義弘(よしひろ)親子と、関東平定をねらう北条(ほうじょう)(うじ)(やす)の間で戦われ、北条氏が勝利をおさめた。

 この日、綺麗に咲いている薔薇を恋人が手を取り合って見ていた。ここがかつて戦場だったことを知っているであろうか。

    里見公園      (さと)()(こう)(えん)

  戰場已變作庭園   戦場(せんじょう)(すで)(へん)じて庭園(ていえん)()

  往事茫茫空涙痕   往事(おうじ)茫茫(ぼうぼう) (るい)(こん)(むな)

  携手情人知恨否   ()(たずさ)ふる情人(じょうじん) (うら)みを()るや(いな)

  薔薇自發弔幽魂   薔薇(しょうび) (おの)ずから(ひら)きて (ゆう)(こん)(とむら)