伏 せ 姫 桜― 市川・真間 漢詩創作紀行― 鷲野正明 平成19年10月21日(日)雲一つない秋晴れのもと、国士舘大学の学生4人と千葉県漢詩連盟の会員15名とともに市川真間方面を散策した。 午前10時、一同JR総武線市川駅に集合。市川市のボランティア2名の説明を聴きながら、真間の継ぎ橋、手児奈霊神堂、亀井院・真間の井、弘法寺・伏姫桜などを見学。昼にはふたたび手児奈霊神堂に戻り、同じ敷地内の稲荷神社社務所で昼食をとりながら柏梁体連句に取り組んだ。 午後は、芳澤ガーデンギャラリーで郭沫若展を見学。須和田公園で郭沫若の「別須和田」(須和田に別る)」の詩碑を読んだあと、郭沫若旧居へと歩を進め、しばし見学の後、坂道を上って今は国府台スポーツセンター駐車場になっている下総総社跡を確認、ついで里見公園へと歩いた。総寧寺、国府台天満宮を見学参拝し、里見公園内に入って、明戸古墳石棺、夜泣き石、紫烟草舎などを見て回った。 夕暮れ時、噴水の周りの薔薇を見ながら休憩。連盟の会員は帰途に就くことになったが、私と学生4人、ボランティアの1名は夕陽に染まる江戸川沿いを市川駅まで歩いて、午後5時ころ一日の散策を終了した。 |
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真間の継ぎ橋、手児奈靈神堂 JR総武線市川駅から少し北に歩くと、東西に国道14号線が走っている。これは大化の改新後、国府台(真間山)に置かれた下総の国府を往来する官道「東海道」だったという。今日とは異なり、相模、上総、下総、常陸(茨城県)を結ぶ道を東海道と言っていたのだ。 「真間の入り江」は、北の「真間の台地」と南の「真間の浦」の間の低湿地帯に河水が滞留してできたもので、「江戸川」に大きく口を開いた形になっていた。ここにもいくつもの洲があり、「真間の継ぎ橋」は、洲から洲に架けられた橋と考えられている。 現在は、JR総武線市川駅から国道14号線を横切り、「弘法寺」の大門へと続く「大門通り」を北に進み、「真間川」の「入り江橋」を渡るとまもなく「継ぎ橋」推定地に、小さな朱の欄干と「つぎはし」と刻された石碑が立っている。橋とは言いながら、道路の両端に朱色の欄干が建っているだけで、水は流れていない。 眞間繼橋 真間の継橋 眞間山下碧漣中 真間山下 碧漣の中 娘子投身俗事空 娘子 身を投じて 俗事空し 今乃路傍無水處 今は乃ち 路傍 水無き処 潺湲如聽緑陰風 潺湲 聴くが如し 緑陰の風 「つぎはし」から少し北に歩くと、右手に「手児奈霊堂」と刻された石碑が建っている。「手児奈」は伝説の美女。「真間の井」に水を汲みにきた手児奈を見た村人たちが次々に求婚し、我こそはと男性が争うのを見て、手児奈は憂えて「真間の入り江」に身を投げたと伝えられる。石碑を右に道を取ると参道に導かれ「手児奈霊神堂」に至る。このあたりが手児奈の奥津城(墓)の跡と伝えられ、戦国時代、弘法寺の日与上人が手児奈の霊に感じて建てたという。堂のかたわらに池がある。これが「真間の入り江」の名残で、その昔手児奈の白鳥のような屍を浮かせたところだそうである。葦の葉も悲しんで、今もみな一方にばかり靡いている。「片葉の葦」と言う。 手兒奈靈神堂 手児奈霊神堂 片葉葦蘆猶儼然 片葉の葦蘆 猶ほ儼然 小池留涙魄歸泉 小池 涙を留めて 魄 泉に帰す 游人閑坐日當午 游人閑かに坐せば 日 午に当たり 風暖微開白睡蓮 風暖かくして 微かに開く 白睡蓮 昼前に訪れたときには開いていなかった白睡蓮が、昼食後に見るとわずかに開いていた。
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亀井院真間の井 手児奈が水を汲んだという「真間の井」は、「手児奈霊神堂」と道路を挟んで斜め北の「亀井院」にあったと推定されている。ちょうど「真間の台地」の下にあたる。その昔、都からはるばる「東海道」を下ってきた人々は、いくつもの「継ぎ橋」を渡り、井戸で咽を潤し、手児奈に思いを馳せたのであろう。『万葉集』には、山部赤人や高橋虫麻呂の歌が載せられている。平安時代の藤原俊成や鎌倉時代の鴨長明、藤原定家、源実朝も和歌を残している。「亀井院」は、北原白秋が大正5年5月中旬から一月半ほど、二人目の妻江口章子と暮らしていたことでも知られる。 眞間井 真間の井 井邊蔌蔌起秋風 井辺蔌蔌として秋風起こり 夕日將沈萬木紅 夕日 将に沈まんとして 万木紅なり 娘子游魂何處有 娘子の游魂 何れの処にか有る 只看汲綆暮煙中 只だ看る 汲綆 暮煙の中
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弘法寺、伏姫桜 大門通りをまっすぐ北上すると弘法寺の大門に至る。亀井院からは大門通りに出て右に曲がるとすぐのところである。大門に立つと目の前に急な石段がそそり立ち、視界をさえぎる。石段を二十数段登ると、左から二つ目の石がいつも濡れている。「涙石」という。石段を登りきると仁王門があり、弘法大師の真筆と伝えられる額が掲げられ、運慶作と伝えられる黒体の仁王像が門を守護している。寺の建立は、天平9年(737)行基菩薩がこの地に来たとき、手児奈の話を聞いて一宇を建てて「求法寺」と名づけ、のち平安時代の弘仁13年(822)弘法大師が七堂伽藍に再建して「弘法寺」と改称したという。日蓮上人親刻の大黒天が祀られている。境内には樹齢四百年の枝垂れ桜があり、「伏姫桜」と呼ばれて親しまれ、花見の季節には多くの人で賑わう。 伏姫櫻 其一 伏姫桜 其の一 老樹相聞四百年 老樹 相聞く 四百年と 眞間山上廟堂前 真間山上 廟堂の前 根如蹲虎鎭臺地 根は蹲虎の台地を鎭めるが如く 幹若飛龍御九天 幹は飛龍の九天を御するが若し
伏姫櫻 其二 伏姫桜 其の二 垂絲櫻葉已疎疎 垂糸の桜葉 已に疎疎 秋日人稀樂有餘 秋日 人稀にして 楽しみ餘り有り 想得伏姫朝醉處 想ひ得たり 伏姫 朝酔ふ処 嬌姿繚亂向風梳 嬌姿 繚乱 風に向って梳るを
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郭沫若記念館 「手児奈霊神堂」「亀井院」を東へ百メートルほど進み左折すると、須和田公園に着く。この辺りの段丘は須和田台と呼ばれ、弥生時代中期から平安時代初期に至るまでの遺跡が発掘されている。公園内には、中国の歴史家・文学家・政治家として活躍した 郭沫若の詩「別須和田」を刻した記念碑と郭沫若のレリーフがある。郭沫若は、昭和3年(1928)から10年間須和田で亡命生活を送り、帰国して抗日戦に参加した。碑に刻された詩文は、昭和30年(1955)に再来日した時の感慨を詠んだものである。 公園から北に行くと、郭沫若記念館がある。須和田六所神社近くにあった旧居を移築復元し、記念館としたものである。 郭沫若故居 郭沫若故居
聞昔地偏荒草縈 聞く 昔 地偏にして 荒草縈り
無人訪問鎖柴荊 人の訪ひ問ふ無く 柴荊鎖すと
滿庭今日秋櫻笑 満庭 今日 秋桜笑き
胡蝶留連弄午晴 胡蝶留連して 午晴を弄ぶ
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里見公園 江戸川を見下ろす絶好の地にある。この辺一帯は、国府台合戦の古戦場で、園内には土塁や空堀の跡とされる場所がある。 国府台合戦は、2回行われた。第一次合戦は、天文7年(1538)、北条氏綱と足利義明の間でくり広げられた。古河公方足利高基と小弓公方足利義明との兄弟の対立から始まり、北条氏綱が高基に加勢し、義明をやぶった。義明は子息らと討ち死にし、小弓公方家は滅んだ。第二次国府台合戦は、永禄7年(1564)、武蔵への進出をねらう里見義堯、義弘親子と、関東平定をねらう北条氏康の間で戦われ、北条氏が勝利をおさめた。 この日、綺麗に咲いている薔薇を恋人が手を取り合って見ていた。ここがかつて戦場だったことを知っているであろうか。 里見公園 里見公園 戰場已變作庭園 戦場已に変じて庭園と作り 往事茫茫空涙痕 往事茫茫 涙痕空し 携手情人知恨否 手を携ふる情人 恨みを知るや否や 薔薇自發弔幽魂 薔薇 自ずから発きて 幽魂を弔ふ
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