中国天津に生まれ、文化大革命を経験。母親について董仲舒の故郷徐水と河北省に下放する。この間の厳しい生活が後の文学研究に大いに役立った。中学時代「に中国の古典を読み漁る一方、日本語を勉強した。中学を卒業後、天津テレビ技術学校に進み、技師として就職した。1979年に全国大学入試に挑戦し、希望の天津外国語学院(大学)に入学した。
1980年日本留学し、二松学舎大学に入学。日本文学を勉強した。修士、博士課程では主に夏目漱石ら明治の作家を耽読した。1987年に「夏目漱石の漢詩研究」を修士論文として提出し、1993年に「漱石と魯迅の比較文学研究」の博士論文を提出し、博士学位を取得した。 2000年に国士館大学助教授、2006年に教授になる。中国近現代文学、比較文学、中国語などの授業を担当。このほか、東京工業大学、二松学舎大学の非常勤講師を兼任。
所属学会
日本比較文学会、日本中国学会、日本現代中国学会、日本郭沫若研究会。
主要研究業績
『漱石と魯迅の比較文学研究』 新典社
翻訳『桜花書簡』東京図書出版
郭沫若の新詩「電火光中」を論ず「二松学舎大学人文論叢」56,57号
郭沫若「牧羊哀話」の創作背景及びモチーフに対する考察
清泉女子大学「人文科学研究所紀要」XX
郭沫若と朝鮮―「狼群中的一隻白羊」を例に― 国士舘大学文学部「人文学会紀要」33号
郭沫若の「天狗」を論ず 「韓中言語文化研究」第5号
日本近現代文学における中国の古典文学の影響の終焉 「韓中言語文化研究」第6号
中島敦「古譚」における異域文化の視野 「世界文化」天津外国語大学
暴力と人間の対峙 「世界華文文学的新時代」吉林大学
郭沫若「鶏之帰去来」に見られる変形的抵抗と対韓認識 「郭沫若学刊」97期
五四時期の韓人題材小説と対韓認識 「韓中言語文化研究」第14号
台湾作家司馬桑敦「芸妓小江」について 国士舘大学「漢学会紀要」7号 等
市川市郭沫若記念館落成
藤田梨那
市川市(千葉県)は市制施行70周年を記念して、郭沫若が1928年以降日本亡命中に居住していた旧宅(郭沫若旧宅)を復元し、「市川市郭沫若記念館」として、去る9月26日にオープンした。記念館は旧宅の近くの真間五丁目公園内に移築された。8月中に、市川市長から記念館落成記念式典のご招待をいただき、当日、式典に参加した。
真間五丁目公園は、郭沫若旧居から裏手の坂道を辿り、須和田台地の頂上にある須和田公園を抜けた所にあった。式典は午後2時からであったが、かなり早く着いたので、久しぶりに須和田公園を散策した。園内には人影もなく、閑散としている。私はゆっくりと園内にある「平和記念碑」と郭沫若の「別須和田」の詩碑を眺めながら、過ぎし日の祖父と母の面影を思い浮かべて、しばし静寂の中に沈んでいた。
落成記念式典は午後2時に始まった。参列者の中には、郭家の親族として、私の他、郭喜代(伯母)と郭昴(従兄弟)がいた。その他、市川市役所の関係者、県会議員、市会議員、中国大使館の一等書記官、郭沫若の故郷楽山から来た政府代表団の一行、合わせて5、60人も集まっただろうか。市川市長千葉光行氏は挨拶の中で市川市と楽山市の姉妹都市の歴史や郭沫若旧居復元の経緯を紹介し、記念館が今後両国、両市の友好を発展させる一助となることを望むと述べた。郭喜代氏は郭家を代表して挨拶し、旧居復元に携わった関係者に感謝の意を表した。関係者のスピーチが終わって、テープカットが行われた。引き続き来賓たちは記念館内を見学した。館内には、郭沫若の写真、彼が市川に居住していた間に執筆した著作のほか、岡崎俊夫訳≪亡命十年≫、小峰王親訳≪日本亡命記≫、殷塵著≪郭沫若日本脱出記≫、武継平著≪郭沫若留日十年≫などの書籍が展示してある。
復元された郭沫若記念館は規模、設計、デザインは元の旧居と同じようにしているそうである。それでも建材が新しいためか、旧居よりずっときれいに見えた。私は80年代に約8年間市川市新田に住んでいたことがあり、須和田までは自転車で10分ほどの距離だった。当時は叔父の郭志鴻が旧居に住んでいたので、暇な時によく遊びに行った。たまに泊まったりもした。そんなある日、祖母郭安娜がアジア平和賞を頂くため日本にやって来た。旧居に滞在していたので、会いに行った。大きな賞を受賞するのだから、本来なら嬉しく思うはずだが、しかしあの時の祖母はたいして嬉しくもなかったようである。受賞の話をしても軽く受け流し、むしろ1937年以後郭沫若が秘密裏に中国へ帰った後の苦しみや憲兵のしたことを話してくれた。その時私が漠然と分かったのは、須和田の旧居での前後約20年の生活は祖母にとって必ずしも平坦ではなかった。いま目の前にあるこの新しい邸宅はどの部屋も私が以前見慣れて、よく覚えている旧居のそれとそっくりである。祖母がもし生きていて、この記念館を見たらどう思うだろう?またどんな話をしてくれるだろう?私はそんなことを考えつつ、記念館の内部を見て回った。
記念式典の記念品として、郭沫若の「別須和田」詩の拓本を頂戴した。これは朱墨で採拓されたものである。この詩について、斎藤喜代子氏は「郭沫若研究会会報」創刊号において「郭沫若と須和田」という文章で言及したことがある。斎藤氏は須田禎一氏の翻訳に疑問を提出し、詩の最後の「別矣須和田」の一句について、「果たして須田氏の訳のごとく‘さらばなつかしき須和田よ‘と解するのがよいかどうか、いささか気になるのである。要するに郭沫若にとっての須和田とはどういう所であったかという問題である。」と言う。この詩をどう理解すべきか、この問題は私にとっても以前からの気がかりの一つであった。記念式典の前に須和田公園を訪ね、「別須和田」の詩碑の前で長い間佇んで考えたのもこの問題であった。
別須和田
1,草木有今昔,人情無變遷。
2,我來游故宅,鄰舍盡騰歡。
3,一叟攜硯至,道余舊日鐫。
4,銘有奇文字,俯思始恍然。
5,“此後一百年,四倍秦漢磚。”
6,叟言“家之寶,子孫將永傳”。
7,主人享我茶,默默意未宣。
8,相對查眉宇,舊余在我前。
9,憶昔居此時,時登屋後山。
10,長松蔭古墓,孤影為流連。
11,故國正荼炭,生民如倒懸。
12,自疑歸不得,或將葬此間。
13,一終天地改,我如新少年。
14,寄語賢主人,奮起莫俄延。
15,中華有先例,反帝貴持堅。
16,苟能團結固,驅除並不難。
17,再來慶解放,別矣須和田。
かなり長い詩なので、便宜のために各聯に数字番号をつけた。1聯から6聯までは郭沫若が須和田を訪問した折の、隣近所の歓迎ぶりを詠う。7聯から12聯は昔日の回顧になっている。ここでは彼の回顧が決して懐かしい、楽しいものではないことを語っている。「昔日ここに居りし時、時に屋後の山に登る」とあるが、彼が昔よく訪ねたのは今の須和田公園のあたりなのであろう。母も生前何度か須和田公園で遊んだことを話してくれた。しかし母の印象にある須和田公園は今子供たちが楽しく遊ぶ公園とはかなりイメージが違っていた。そこは樹木が鬱蒼として、昼間でも薄暗く、時折牛蛙が寂しく鳴いて、気味悪く感じられたという。郭沫若は10聯で詠んだ裏山の雰囲気は母が子供心に感じたものを髣髴とさせる。子供だった母はただ気味悪く感じたのに対して、郭沫若はもっと深い寂しさ、不安と危機を感じていた。それは12聯「自ら疑うらくは帰りえずして、或いは将にこの間に葬られん」に詠み込まれている。約十年間須和田で生活し、毎日特高の監視を受けていた。彼は須和田公園にやってきて、自分の抑圧された心を慰めようとして、松の陰や古墳の辺りを徘徊した。しかしそれらは故国の自然ではない。古墳が死を象徴するように、彼もまた自分はもう祖国に帰れずに、ここに骨を埋めるようになるかもしれないと感じた。この挫折感と抑圧感は1923年留学生活を終えて、中国に帰るときに詠んだ「留別日本」に見られるあの開放感、自信とはまったく異なったものである。このことは却って亡命生活が彼にとって苦痛で疎ましいものであったことを物語る。彼の自伝≪創造十年≫や≪私は中国人だ≫、自伝小説≪帰去来≫などにも亡命生活の苦痛が痛切に描かれている。そうだとすれば、この詩の最後の一句「別矣須和田」は「さようならなつかしき須和田よ」と読んではならないのではないか。須和田を訪問した時、郭沫若はすでに中国政府の要人であったし、訪問団の団長でもあったので、政治的立場に立って発言しなければならないと彼はずいぶん配慮したのであろう。「別須和田」の詩は大きな部分において政治的、外交的性格を帯びていることは否めない。彼が須和田に抱いた思いは恐らくこの詩に盛り込まれないほどのものであったろう。
頂戴した「別須和田」の拓本と一緒に、この詩を訓読した一枚の紙が入っていた。見ると最後の一句は須田氏の読みと違って、「別れなん須和田よ。」となっている。郭沫若の亡命十年を理解するために、われわれはいまこの詩を再読、再解釈する必要はあるのではあるまいか。
市川市郭沫若記念館
場所:市川市真間5丁目3番 真間5丁目公園内
開館時間:午前9時――午後5時
月曜日休館・月曜日が祭日の場合は翌日休館
藤 田 梨 那 自己紹介