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VOL.18-04  2016年04月

  「京王線沿線の不思議と謎(1)

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 昨年9月に『京王線井の頭線沿線の不思議と謎』(じっぴコンパクト新書:写真A)が発行された。筆者が監修したものなので、今回は本書で取り上げている話題について、写真でみてゆく。京王線は「京王電気軌道」として1913年(大正2)笹塚~調布間で開通した。甲州街道に沿う路線であるが、笹塚付近が当時の東京市街地の西端にあたり、これより東側は既に宅地化しているため、玉川上水沿いに少しずつ開通していくこととなり、新宿の起点駅である「新宿追分」まで開通したのは2年後の1915年である(同書p.76参照)。この間では、甲州街道・京王線・玉川上水が完全に並ぶことになったが、現在は京王線は地下線化、玉川上水も暗渠化したため、写真Bの景観となった。左端首都高の高架下が甲州街道、左手の緑地帯が京王線、右側のコンクリート路盤が玉川上水である。旧甲州街道上を京王線が走った区間もあり、写真Cは新宿駅に近い現在の甲州街道の裏通り、葵通りと称する旧甲州街道で、この付近に旧葵橋駅があった。そこから山手線や中央線を越えて青梅街道と甲州街道が分岐する新宿追分を起点とした。写真DはJR新宿駅南口付近から新宿3丁目方面を見たところで、突き当たりに「京王新宿追分ビル」がある。このビルの1階にかつての京王線新宿追分駅があった。また、写真Eは伊勢丹側の新宿追分で、中央に「追分だんご」、右手が新宿三丁目交差点で、最初はこの付近で東京市街鉄道(のちの都電)と乗り入れる予定であった。結局乗り入れは実現しなかったが、乗り入れのためにレールの幅を共通とした(同書p.82参照)。このことは1978年(昭和53)に都営新宿線との相互乗り入れにより実現した(同書p.85参照)。写真Fは現在の京王新線(都営新宿線)新宿駅である。
写真A  写真B
     
     
写真C 写真D
写真E 写真F
 さて、話題を明大前駅付近に移そう。明大前駅は開業時「火薬庫前」駅であった(同書p.172参照)。火薬庫とは大正末頃まであった陸軍の和泉新田火薬庫であるが、その起源は江戸幕府の焔硝蔵であった。その跡地は明治大学和泉校舎と築地本願寺和田堀廟所となっている(写真G)。この西側に7つの寺院が集中し、寺町を形成している(写真H)。郊外に形成された「寺町」としては、関東大震災後の帝都復興事業によって郊外移転し集中立地した烏山寺町(「今月の地理写真」Vol.4-10(2002/10)参照)が最も有名であり、このほか松原寺町(写真I)もある。写真Hは江戸時代には麹町にあった栖岸院で大正9年に当地に移転した。周辺の寺院も明治末期から大正期に旧江戸の東京市街地から移転してきたもので、震災後の集中移転が有名ではあるが、それ以前からこのような移転は進められていた(同書p.136参照)。最後に写真Jは玉川上水の下をくぐる井の頭線であるが、橋脚の右手2ヶ所を電車が通り、左手2ヶ所は空いている。ここにも線路が敷かれるはずだったと見ることができる。これは大正期に計画された「東京山手急行電鉄」計画(同書p.114参照)の遺構である。
     
写真G 写真H
写真I 写真J
   
   
 (写真はいずれも2016年3月、岡島 建撮影) 




                                              

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