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VOL.20-05  2018年05月

  神田三崎町・神田猿楽町・神田神保町界隈」
宮地忠幸

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  神田三崎町および神田猿楽町は、本郷台地の縁に当たる一帯にあります。このうち、三崎という地名は、江戸幕府が開かれるまでは日比谷入江に突き出た土地の端にあったことから名づけられたそうで、その当時この地域は三崎村と呼ばれていたそうです(三崎町会の説明による)。写真は、本郷台地の南端にあたる駿河台から神田猿楽町方面を眺めたものです。関東大震災後、震災復興事業の一環として本郷台と猿楽町の境に広がる崖に、「男坂」と「女坂」という2つの通路がつくられました。写真は「女坂」から撮影したものです(写真1)。
 写真2は、三崎稲荷神社です。水道橋駅東口改札口から徒歩1〜2分ほどのところにあります。「神社と御朱印」https://jinja.tokyolovers.jp/tokyo/chiyoda/misakiinarijinjaのサイトによれば、この神社の由緒が以下のように書かれています。1182(寿永元)年、神田山(現・駿河台)の山麓(現・本郷一丁目)に武蔵国豊島郡三崎村総鎮守として創祀されたと推定される。1603(慶長8)2月、徳川家康により、潮入地埋立工事のため社地を西三丁に奉遷された。三代将軍家光が参勤交代の制度を定めたとき家光自ら参拝、諸大名にも参拝を促したという。それがきっかけで諸大名は参勤交代による江戸入りの際、必ず当社に参拝し心身を祓い清めることが慣例となり「清めの稲荷」と称されていたという。1659(万治2)年、江戸城外濠神田川筋の堀割り工事のため、現三崎町二丁目北部の地に奉遷される。1860(万延元)年、幕府講武所開設のため、旧水道橋西ぎわに再遷座し、甲武鉄道(現JR中央線)が万世橋まで延長されたのに伴い1905(明治38)年現在地に鎮座した。
 幾たびかの移転を経て、今日の三崎町二丁目に鎮座しているのですね。
                     
写真1 本郷台南端(駿河台)から神田猿楽町方面を眺める 

写真2 三崎稲荷神社

   
   

 写真3は、神田三崎町二丁目の六差路です。現在の神田三崎町二丁目一帯は、1860年に江戸幕府が設置した講武所があったそうです。明治時代になると陸軍の練兵場として使用されるようになった後、1890年に三菱に払い下げられて、この地が三崎町という町名となったそうです。その後、劇場の三崎三座(東京座、三崎座、川上座)や帝国パノラマ館(1897年完成)、日本法律学校(後の日本大学)が1895年に飯田橋から移転してきました。文化的施設が多数設置されたこの地では、三菱が中心となってパリの街並みを模倣した町割りをつくろうとしたそうです。その名残が、この六差路だそうです。写真では二差路しか見えませんが、ちゃんと六差路あります。※パノラマ館とは、円筒形の場内に描かれた一続きの画を、中央の見物台から眺めるという単純なものですが、近景に配された実物大の造作物と遠景の図絵を巧みに繋ぎあわせた上で、観客の目線と水平線を一致させ、さらに光線の具合を調節することで、あたかも実景に取り囲まれているような擬似効果を作り出す、視覚が引き起こす錯視を効果的に利用した空間装置のこと(明治・大正1868-1926:ときのそのとき http://www.meijitaisho.net/toa/panoramakan.php一部転載)
 写真4は、今も残る町会の集会所の写真です。神田三崎町、神田猿楽町、北神田、神田神保町など、それぞれの町会が今なお組織され、機能しています。三崎稲荷神社の例大祭時には、それぞれの町会ごとにお神輿が出され、大いに盛り上がります。「隣三軒両隣」のような地域のコミュニティが、この地域にはしっかりと維持されています。とはいえ、一部の町会では住民の減少や高齢化に悩まされているという話も伺いました。

写真3 神田三崎町二丁目の六差路  写真4 今も残る町会
 
 
  ご存知の方も多いと思いますが、この地域は日本の中でももっとも出版・印刷業者が集積している地域として知られています。政治・経済・文化の中心である東京(都心部)が、膨大な紙需要をもっていることを背景に、これらの業種の集積が進みました。神田地区では、出版・印刷業のなかでも図書出版を主とする業者の多いと言われています。時代変化のなかで、だいぶその数は減っているとはいえ、今なお操業を続ける伝統ある業者も少なくありません(写真5)。
 街を歩くと、ときどき“ガチャッ、ガチャッ”と心地よい機械音が聞こえてきます。この辺りにある小さな町工場が日本の出版物を支えています!(写真6)。
   
写真5 出版・印刷業の集積地

写真6 小さな町工場が日本の出版物を支えています!

   

 写真7は、神田神保町の古書店街を撮したものです。世界一の本の町(「本の街」神田神保町オフィシャルサイトより)・神田神保町。今も180軒近い古書店が軒を連ねています。学生の頃は私もよく通いました(まだ、ネット通販ができない時代でしたので。。。)。JIMBOCHO古書店MAP2018」がインターネットで公開されています。http://jimbou.info/news/161005.htmlをご参照ください。ただ、古書店も減少しているようです。古書店だったところが飲食店等に変わってきています。
 写真8は、裏通りの景観です。手前にみえる2階建ての建物。歴史を感じる印刷所です。周囲は商店や集合住宅に変化しています。

   

写真7 神田神保町の古書店街

写真8 「裏通り」の景観

   
 新旧の住宅地図を見比べると、土地利用の変化がはっきりとみてとれます。この場所もかつては印刷所があったところ。出版・印刷所であったところが駐車場などへ変化してきているようです(写真9)。 きちんと調べていませんが、白山通り、靖国通り、そしてその裏通りにもたくさんのカレー店があります。最近、私も少しずつそれらのお店を食べ歩き始めていますが、チェーン店もありますが、個性的なお店が多いです。カレー好きにはたまらない街です。写真は、通りを挟んで向かい合うライバル店(写真10)。
   

写真9 増加傾向にある駐車場

写真10.神田三崎町・猿楽町・神保町界隈はカレー店激戦区?!
   

 千代田区の町丁目ごとの人口動態(国勢調査人口:2010・2015年)をみると、神田三崎町、猿楽町では、一部の地区を除いて人口が増加しています。人口の「都心回帰」が進んでいるということなのでしょうか?調べてみると面白いかもしれません。白山通りから一本入ると写真のような集合住宅が多数建っています。賃貸物件が多いと聞きますが、どうなのでしょうか?私が、毎朝8時過ぎにこのあたりを通ると、その時間に出勤するサラリーマンをたくさん見かけます。ちょっとうらやましいです(写真11)。
 かつて飯田橋駅から南東方向へ延びる支線があったことをご存知でしょうか?1999年までここに飯田町駅が設置され、主として紙の物流拠点基地として役割を果たしていました。1971年に国鉄、製紙会社、通運会社の共同出資によって株式会社飯田町紙流通センターが設立され、72年に飯田町駅構内に流通倉庫が完成。貨物駅と流通倉庫を敷設した背景には、大量の紙需要に対応する倉庫の確保、荷物の積み下ろし作業場の確保がありました。後掲する地形図(1:10,000 「日本橋」の一部)は、1998年修正のものです。当時は、まだこの貨物駅が地図上に記載されていました(図1)。 

   

写真11.増加傾向にある集合住宅

写真12.貨物駅の跡地付近の地図

   
  貨物駅の跡地は、複合施設の「アイガーデンテラス」をはじめ、オフィス、集合住宅が建てられています(写真12・13)。往時を偲ぶ者は「アイガーデンテラス」の前に広がる公開空地に残されているレールのみのようです(写真14)。
   

写真13.貨物駅の跡地は再開発が進んでいます

写真14.貨物線が通っていた名残

     図1 1:10,000「日本橋」の一部抜粋
 

撮影:20184月・5月 宮地忠幸

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