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VOL.7-08  2005年08月

「日本の閘門式運河」

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 閘門式運河は、運河の起点と終点の間の水位差が大きく、船の航行に支障がある場合に閘門をいくつか設置して、閘門の開閉によって水位を一定に保ちながら船を通す運河である。世界的に最も有名なのはパナマ運河で、本シリーズ(「今月の地理写真」)のVol.2-7(2000/07)でも取り上げられている。パナマ運河は太平洋と大西洋を結ぶ大規模なものであるが、世界各地の内陸水路では当然土地の高低から水位差が生じるため、ヨーロッパを中心に閘門式運河は数多く造られてきた。本シリーズではVol.2-1(2000/01)にイギリスの例を紹介している。
 日本でも明治以降になると各地で造られている。写真Aは1998年に近代化遺産として国指定重要文化財となった富山市の富岩運河(1935年開通)の中島閘門である。手前の閘門を開けて閘室に船を入れ、向こう側の閘門(写真B)の水入れ口を開けて水を閘室内に入れていく。写真Bでは門の手前(閘室)と向こう側(運河)の水位にかなり差があることが分かる。そして水位が同じになると写真Cの様に閘門を開け、船が出て行くことになる。富岩運河では現在船が通過することはほとんど無いが、閘門の開閉は定期的に行っている。運河ではないが、現在も使用されている内陸閘門に木曽川と長良川を結ぶ船頭平閘門があり、これも本シリーズのVol.1-6(1999/12)で紹介した。
      

<写真A> <写真B> <写真C>


 さて、日本で最も古い閘門式運河が1731年に開通した見沼通船堀である。図1に示したように用水路である見沼代用水(ため池であった見沼を干拓した代わりに利根川から水を引いた用水路)と、排水路である芝川を結んで見沼地域から上流の地域と江戸との物資輸送のために水運を通したものである。用水路と排水路を結ぶのであるから、当然高低差がある。図1中の「一の関」「二の関」が閘門で、両関間が閘室に当たるのであるが、上記の近現代の閘門式運河では閘門の開閉や水入れは電気の力による。江戸時代の通船堀はどのようにしたのか疑問であったが、年に1回、閘門開閉実演を通船堀東縁(ベリ)で行っているので、その様子を紹介しよう。

<図1>さいたま市教育委員会作成の掲示板の一部


 まず、閘室である「一の関」「二の関」間の水位を上げるために、「一の関」に角落板(幅30cm・長さ約3m)をはめていく。写真Dは4枚ぐらいはめたところで、閘室に水が溜まってきている。写真Eは「二の関」から「一の関」を望んだもので閘室へ勢いよく水が流れている。角落板のはめ方は、まず溜まっている水面に板を落とし(写真F)、棒で板をはめる部分に流し(写真G)、水圧で自然にはめる(写真H)というもので、10枚ぐらいはめると「二の関」と上流側との水位差が無くなるので、船が「二の関」(写真I右手)に向かう。また「二の関」(写真J)から船が閘室に入ってくる(写真K:左手が「一の関」)。次に閘室の水位を下げるために角落とし板を外していく(写真L)。これは先ほどと全く逆の手順となるが外す方が容易である。1枚外すごとに「一の関」を勢いよく水が流れ出し、水位はどんどん下がっていく(写真M)。最後の1枚を外すと「一の関」と下流側の水位は同じになり(写真N)、船が「一の関」から出て行くことになる。

<写真D> <写真E>
<写真F> <写真G> <写真H>
<写真I> <写真J> <写真K>
<写真L> <写真M> <写真N>

 (図1は、さいたま市教育委員会作成の掲示板の一部:2005年8月撮影)
 (写真Aは2004年8月、B〜Iはいずれも2005年8月、岡島 建撮影)


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