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学生時代;「私は誰でしょう」


 大学時代というと35年以上も前の話になります。多くの思い出があったはずですが、なかなか思い出せません。 しかし、「充実していた」「楽しかった」というのは間違いなく、その『大学』という空間が大好きで、今も『大学』で暮しています。

 では、当時、何をやっていたのか?振り返ると、サッカー、アルバイト、友人との交遊と少しの勉強というありふれた感じだったと思います。 しかし、それらに全力で必死に取り組んでいました(勉強は?)。サッカーでは、九州の片田舎の弱小大学でありながら、 夢は大きく全国制覇。結果は、全国ナンバーワンの筑波大学に敗れましたが、全国大会に出場しました。 アルバイトはもちろん生活のため。毎月1万円の仕送りしかなく(別に物価が安かった時代ではありません) 、 週6日で家庭教師をやってました(もちろん、夕食付)。友人とは、中古車を共同購入し、男5人で熊本から東京までの無計画の旅もしました。

 大学時代に「何をしたか」ということはもちろん大事なことだと思います。 しかし、それ以上に「どのようにしたか」ということが重要だと感じています。 皆さんも、『大学』で「充実した」4年間を過ごしてください。

 全国大会の写真です。左端が私です。右端は元日本代表キャプテンの井原選手、右から二番目は同郷(熊本)の友人で現在は強豪大津高校の平岡監督。


 大学院生だった20代後半の私ですが、今の私とは別人のように感じます。少し悲しげにも見えるその表情には、夢や希望よりも、不安と自信のなさが表れています。「初心忘るべからず」と言われますが、あの頃、初心というほどの野心もなく、ただ「自分らしく生きていきたい」と思っていました。けれどもその道は、まだ見えていませんでした。 60才に近づいた今、あの頃の私に声を掛けるとすれば、「大丈夫、何とかなるさ!」です。


 私の専門は歴史学ですので、学生時代にもよく遺跡・史跡めぐりをしていました。学生の頃は主に日本国内をめぐるばかりでしたが、 こちらの写真は、「このチャンスを逃したら二度と行けないかもしれない…!」と、清水の舞台から飛び降りるつもりで行った、イタリア・フィレンツェでの思い出の一枚です。 このイノシシ像は、現地ではPorcellino(ポルチェッリーノ:子豚ちゃん)と呼ばれ、鼻をなでると幸運が訪れるという言い伝えがあるのだとか。 ルネサンスの花開いたフィレンツェは、「もし海外に移住するならここがいい!」と思うほどステキな街で、ご飯もとても美味でした。

 大学教員となった今も、専門分野に関わりのある外国にはしばしば行っていますが、海外の楽しさは、なにより自分の知らなかった世界を観ることができるワクワク感だと思っています。 国内でも、引っ越しや進学など、様々な機会で新しい世界に足を踏み入れることがありますが、国士舘大学での学生生活が、 学生のみなさんにワクワクした気持ちをたくさん味わってもらえるものであるよう、私たち教員も日々努めています。

一日もはやく、また自由に海外に行ける日々が戻ってくることを祈って…!



書くことの習慣化 −きっかけとしての卒業論文−

 何でもかんでもトレンディであることがもてはやされたバブリーな時代、そのまっただ中だったにもかかわらず、私のキャンパスライフは、 授業と部活(軽薄なテニス&スキーサークルなどではなく、体育会軟式テニス部)の繰り返し、教室とコートを行ったり来たりするばかりで、決して浮ついたものではなかった。それでも青春を謳歌したとの思いは十分にある。後悔は微塵もない。友達や仲間、先生にも恵まれた。とにかく楽しかった。そう断言できる。

 卒業が目前に迫っていた頃、「愛という名のもとに」というテレビドラマにハマった。主題歌は浜田省吾の「悲しみは雪のように」。卒論を書きながら、日本語能力不足を痛感していた私は、「君の肩に悲しみが雪のように積もる夜には」という冒頭の見事なフレーズを耳にして、 「次に論文を書くときは、こんなきれいな言葉を使ってみたい」と思った。残念ながら力及ばず、大学院入学以降、今日に至るまで全く実行できていない。 でも、毎年いくつかの新しい作品を発表すること、それだけはかろうじて続けている(研究者なら当たり前!と一喝されそうだ)。 いまの私は、大学4年生の自分のなれの果てなのかもしれない。



 私の大学時代は,ひとことで言えば「好きなことに思い切り取り組んだ時間」であったと言うことができます.

 私は中学校から陸上競技をしてきました.当時の顧問のようになってみたいという憧れから,大学は中学校保健体育教員を目指して教育学部に入りました. 大学では,授業も運動する時間も必要な一方で,自由に使える時間も増えたので,それらの時間で好きなことを思い切りしました. 大学の授業の空き時間にスキーに行ったり(私は岩手県の大学でした),マラソン大会に出たり,演劇を観に行ったり,ダンスの舞台に出たり, 児童館で子どもの運動教室の講師をしたり,ナイターやコンサートの準備・片付けのアルバイトをしたり,塾講師のアルバイトをしたり,コンビニでバイトをしたり (これは4年間続けました)… 大学の学生食堂で,仲間と暗くなるまで語り合ったことも忘れられない思い出です.

 その時に経験した様々なこと,そこで出会った様々な人々との出会いが,いまの私を創ってくれていると強く感じます. 何より,いつも全力で「思い切り」取り組めたことが,私の中に多くの思い出や成長をもたらしてくれたように思います.

 みなさんにも,学生時代に挑戦してみたいことには真正面から全力で取り組んで, 心と体をフルに使って,たくさんの実感を得られるような毎日を過ごしてほしいと願っています(ただし,してはいけないことや無理を強いるようなことはいけませんよ). これから,みなさんと学生生活についていろいろと話し合えたら嬉しいです.コロナ禍でたいへんなこともありますが,「スマイル一番」で過ごしていきましょう!

     マラソン大会で   ダンスの舞台で  コンビニの
 クリスマス


 この写真は、将来自分がどんな職業に就き、どんな人生を送るのか、どこに向かっているのかわからず、不安な日々を過ごしていた頃の私です。 笑顔の裏に焦りと不安が隠されているのがわかりますか?

学生時代に大切にしていたのは、「今、目の前にある、自分にできることを一生懸命にやりなさい」という父の言葉でした。 今でも将来のことが不安になると、この言葉を思い出します。

 アルバイトやボランティアをいくつも掛け持ちし、寝る時間を惜しんでたくさんのことを経験しましたが、 それが未来に何の役に立つのかということを、当時は考えませんでした。 アメリカの大学で日本語・日本文化を教える 9ヶ月のプログラムに参加した時も、自分が誰になりつつあるのかわからないまま、とにかく与えられた環境で、 自分にできることをやろうと不安で焦っていた記憶しかありません。写真はその時に出会ったタイ人の友人とのものですが、 この写真を見ると、自分の気持ちや考えがうまく伝えられない、できないことを「できない」というのが恥ずかしい、 と失敗を恐れていた自分を思い出します。ただ、この写真の時の自分がいてくれたから、今の私があるのだとも、思います。 遠い未来のことを考えて不安になるよりも、ただ、目の前にある一つ一つの今を大切にして生きてきたら、 その今が積み重なり、未来になっていました。 今が過去になり、その過去にどんな意味があったのかということを決めるのは、未来のあなたです。

 現在はコロナ禍で、会いたい人に会えず、やりたいことができず、歯痒い思いをしていることだと思いますが、 皆さんにも、この言葉を送りたいです。「今は、目の前にある、自分にできることを一生懸命にやってみてください。」 きっと、未来のあなたが、その意味を決めてくれるはずです。



大学生の頃の私

 京都で生まれ育った私は、とにかく親元から離れたいとの思いから、京都駿台予備校での浪人生活を経て、 何とか東京の大学へ進みました。浪人時代に“神田川”を聞きながら思い浮かべていた、念願の一人暮らしが叶ったわけです。

 大学生活のスタートは、横浜の保土ヶ谷でした。家賃九千円の間借り、銭湯にコインランドリー通い、といった毎日でしたが、 嬉しくてたまりませんでした。2年生から通学するキャンパスが変わるのを機に、東京の池袋に引っ越しました。池袋を選んだ理由は・・・、 通学定期券で、渋谷・新宿・池袋を利用できるからです。このような不真面目な動機からわかるように、勉強するというよりも、 友人と都会での大学生活を楽しむ、ということで頭の中はいっぱいでした。山下達郎やユーミンやから ボズ・スキャッグスやビリー・ジョエルなどを聞くように変わっていったころには、不真面目さも増していました。 『なんとなくクリスタル』な毎日、というわけではありませんでしたが、本人には、とても楽しい日々でした。 アルバイトをしては“ニューヨーク・ニューヨーク”や“キャンディー・キャンディー”へ、授業の後は“村さ来”や“天狗”へ 出かけていました。流行っていた遊び・・・、とくに記憶にあるのは“インベーダー”などです。ただ下手だったので、 個人的にはあまりはまりませんでしたが。今より、キャンパス周辺には、多くの喫茶店があって―いわゆ雀荘もまだたくさんありました―、 授業の合間には、そこで本を読んだりしていました。『窓ぎわのトットちゃん』などもあの頃だったような気がします。雨の日には、 いわゆる名画座などの映画館に出かけたりもしました。「追憶」「E.T.」・・・あれやこれやと見ました。そういえば、授業が休講になると、 よくみんなでボーリングをしていたことも思い出します。「卒論」は、というと、ありました。 当時の大学・学部は、ほぼどこでも必須でした。ボルノーで書いたのを覚えています。

 大学生の時代が大好きでしたから、卒業後は会社員も経験しましたが、四年間の学部時代も含めて、その後、計十五年近く、 学生生活を送ってみました。親にとっては、気がかりで頭が痛かったようでしたが。 みなさんにも、ぜひ素敵な時間を過ごしてほしいです。



 40年ほど前の学生時代は、よく山に登っていました。就職したら全く登らなくなりましたが、違うスポーツに没頭しました。 大学では、勉強をさせられたというより自分でするものなのだということを実感しつつ、自由な時間をアルバイトと登山に励みました。
 大学1年生、日高山脈の幌尻岳です。ヒグマが棲む山です。ヒグマに襲われた福岡大学ワンゲル部の話が強く印象に残っています。ヒグマの勉強をしました。  大学1年生、八ヶ岳連峰の赤岳です。紅葉の終わり初冬です。
     
 大学2年生、宝剣岳、冬山です。後ろに御岳山が見えます。  冬の大菩薩峠です。富士山がきれいです。大学4年生頃かな、就職したくなくて大学院の受験勉強をしていました。

文学部教育学科教育学コース

世田谷キャンパス